つのりゅう retweeted
#ももクリデリバリー
チケットフリーの方のオフィシャルグッズ販売を開始しました!
一箇所、場内の扉を閉め忘れてしまいました。
申し訳ございません。
#ももクロ
つのりゅう retweeted
ギターが何本か増えてくると、弾かないのに部屋に飾ってるだけのギターって増えちゃいますよね。
でも正直、それが悪いとは別に思ってなくて。
そのギターが部屋にあって気分が上がる、それだけでもかなり価値があると思うんですよね。
部屋に置いてれば、ちょっと時間ができた時に、ふとしたきっかけで手に取って弾くかもしれないし。
毎日弾くことだけが正義じゃないし、楽しみ方は人それぞれ。それは全部肯定されていいと思ってます。
大森編集長のお言葉、非常に深く胸に刺さりました。
今回のリアポで自身の展示にキャプションを添える際、また会場で他の素晴らしい作品の背景を伺った際にも、
「鑑賞者へ一歩目を届ける道しるべ」
の大切さを身をもって実感したばかりでした。
貴重な発信をありがとうございます。
【編集長の戯言】
日本一大きいと言っても過言ではないリアポが終わった。
これだけの大きいイベントを担うHASEOさんにはいつも感服する。
そして、いつもレビューを求めてくれる方々に感謝です。
そんな中でいつも感じてる事、アドバイスすることがあるので、今回はそんな話を少しだけ🙉
〝自由すぎる想像は、不自由なのかもしれない。”
「写真は見る人に自由に想像してもらいたい」
写真を語るとき、よく耳にする言葉。
私自身、その考え方には共感する。
写真の解釈はひとつではないし、撮影者が用意した答えだけが正解だとも思わない。
見る人それぞれの経験や記憶、感情によって、同じ写真が違って見える。
そこが写真の面白さでもある。
でも、少し思うことがある。
自由すぎることは、時に不自由なのではないか。
何を感じてもいい。
どう解釈してもいい。
何を想像してもいい。
そう言われると、かえって何を考えればいいのかわからなくなることがある。
例えば、何の説明もない1枚の写真を見せられて、「自由に想像してください」と言われたらどうだろう。
写真が好きな人なら、そこからいろいろな物語を膨らませるかもしれない。
でも、すべての人がそうとは限らない。
そもそも、人は僕らが思っているほど親切に写真を見てくれるわけではない。
写真の前で立ち止まり、時間をかけて、その意味を考えてくれる。
そんな人ばかりではないのだ。
何を見ればいいのかわからない。
何を感じ取ればいいのかわからない。
考えること自体が、少し面倒くさい。
そう感じた瞬間に、その人の鑑賞は終わってしまう。
それは決して、見る側の感性が乏しいという話ではない。
私たちだって、興味の持てないものに、いつまでも時間を使わないよね。
だからこそ、作品を見せる側にも、少し工夫が必要なのではないかと思う。
想像する自由を残しながら、想像する方向を少しだけ示してあげる。
例えば、海辺に一人佇む女性の写真。
何の言葉も添えなければ、見る人は何を感じてもいい。
寂しさかもしれないし、解放感かもしれない。
ただ綺麗な風景だと思って終わるかもしれない。
でも、そこに「別れのあと」というタイトルがあったらどうだろう。
見る人は、彼女が何と別れたのかを考え始めるかもしれない。
恋人なのか。
過去の自分なのか。
それとも、戻れない懐かしい時間なのか。
想像できる範囲は、狭くなった。
けれど、代わりに想像するきっかけが生まれた。
何もないところから自由に考えるよりも、ひとつの方向を示されたほうが、かえって想像が広がることもある。
私は、それを不自由だとは思わない。
もちろん、作品のすべてを言葉で説明する必要はない。
「この写真は悲しみを表現しています」
「この女性は恋人と別れて寂しがっています」
そこまで説明してしまえば、見る人が想像する余地は少なくなる。
でも、何も伝えないことが、必ずしも自由だとは思えない。
大切なのは、答えを教えることではなく、作品が向かっている方向、つまりベクトルを示すことなのだと思う。
撮影者が何を感じ、何を伝えようとしたのか。
その入り口を、ほんの少しだけ用意しておく。
あとは見る人が、自分の記憶や感情を重ねながら、その先を自由に歩いていけばいい。
考えてみれば、自由というものは、選択肢が多ければ多いほど幸せというわけでもない。
選択肢が無限にあると、人は選ぶこと自体に疲れてしまう。
だから、少しだけ選択肢を絞ってあげる。
想像するための道筋を、そっと示してあげる。
それは想像力を奪うことではなく、想像力を動かすための後押しなのだと思う。
写真は、撮影者が完成させるものなのか。
それとも、見る人の想像によって完成するものなのか。
僕は、その両方なのだと思っている。
撮影者には伝えたい世界がある。
見る人には、それぞれの感じ方がある。
その二つがどこかで交わったとき、誰かの心に残る作品になるのではないだろうか。
だから私は、見る人に自由に想像してほしいと思う一方で、その自由をすべて丸投げするのではなく、
自由に想像してほしいからこそ、少しだけ導いてあげたい。
矛盾しているようて、実はそうでもないかも。
何もない荒野に放り出されて「好きなところへ行っていい」と言われるよりも、一本の道があったほうが、歩き出しやすい。
その道を進むのか、途中で外れるのか、引き返すのか。
それは見る人の自由だ。
私たちが用意するのは、目的地ではなく、最初の一歩を踏み出すための道しるべ。
想像の自由を守ることと、想像を放任することは、きっと違う。
作品に言葉を添えることは、必ずしも野暮なことではない。
その言葉が答えではなく、想像への入り口になっているのなら。
それくらいの親切があってもいいのでは。
そんなことを、イベントが終わる度に感じている。
つのりゅう retweeted
【編集長の戯言】
日本一大きいと言っても過言ではないリアポが終わった。
これだけの大きいイベントを担うHASEOさんにはいつも感服する。
そして、いつもレビューを求めてくれる方々に感謝です。
そんな中でいつも感じてる事、アドバイスすることがあるので、今回はそんな話を少しだけ🙉
〝自由すぎる想像は、不自由なのかもしれない。”
「写真は見る人に自由に想像してもらいたい」
写真を語るとき、よく耳にする言葉。
私自身、その考え方には共感する。
写真の解釈はひとつではないし、撮影者が用意した答えだけが正解だとも思わない。
見る人それぞれの経験や記憶、感情によって、同じ写真が違って見える。
そこが写真の面白さでもある。
でも、少し思うことがある。
自由すぎることは、時に不自由なのではないか。
何を感じてもいい。
どう解釈してもいい。
何を想像してもいい。
そう言われると、かえって何を考えればいいのかわからなくなることがある。
例えば、何の説明もない1枚の写真を見せられて、「自由に想像してください」と言われたらどうだろう。
写真が好きな人なら、そこからいろいろな物語を膨らませるかもしれない。
でも、すべての人がそうとは限らない。
そもそも、人は僕らが思っているほど親切に写真を見てくれるわけではない。
写真の前で立ち止まり、時間をかけて、その意味を考えてくれる。
そんな人ばかりではないのだ。
何を見ればいいのかわからない。
何を感じ取ればいいのかわからない。
考えること自体が、少し面倒くさい。
そう感じた瞬間に、その人の鑑賞は終わってしまう。
それは決して、見る側の感性が乏しいという話ではない。
私たちだって、興味の持てないものに、いつまでも時間を使わないよね。
だからこそ、作品を見せる側にも、少し工夫が必要なのではないかと思う。
想像する自由を残しながら、想像する方向を少しだけ示してあげる。
例えば、海辺に一人佇む女性の写真。
何の言葉も添えなければ、見る人は何を感じてもいい。
寂しさかもしれないし、解放感かもしれない。
ただ綺麗な風景だと思って終わるかもしれない。
でも、そこに「別れのあと」というタイトルがあったらどうだろう。
見る人は、彼女が何と別れたのかを考え始めるかもしれない。
恋人なのか。
過去の自分なのか。
それとも、戻れない懐かしい時間なのか。
想像できる範囲は、狭くなった。
けれど、代わりに想像するきっかけが生まれた。
何もないところから自由に考えるよりも、ひとつの方向を示されたほうが、かえって想像が広がることもある。
私は、それを不自由だとは思わない。
もちろん、作品のすべてを言葉で説明する必要はない。
「この写真は悲しみを表現しています」
「この女性は恋人と別れて寂しがっています」
そこまで説明してしまえば、見る人が想像する余地は少なくなる。
でも、何も伝えないことが、必ずしも自由だとは思えない。
大切なのは、答えを教えることではなく、作品が向かっている方向、つまりベクトルを示すことなのだと思う。
撮影者が何を感じ、何を伝えようとしたのか。
その入り口を、ほんの少しだけ用意しておく。
あとは見る人が、自分の記憶や感情を重ねながら、その先を自由に歩いていけばいい。
考えてみれば、自由というものは、選択肢が多ければ多いほど幸せというわけでもない。
選択肢が無限にあると、人は選ぶこと自体に疲れてしまう。
だから、少しだけ選択肢を絞ってあげる。
想像するための道筋を、そっと示してあげる。
それは想像力を奪うことではなく、想像力を動かすための後押しなのだと思う。
写真は、撮影者が完成させるものなのか。
それとも、見る人の想像によって完成するものなのか。
僕は、その両方なのだと思っている。
撮影者には伝えたい世界がある。
見る人には、それぞれの感じ方がある。
その二つがどこかで交わったとき、誰かの心に残る作品になるのではないだろうか。
だから私は、見る人に自由に想像してほしいと思う一方で、その自由をすべて丸投げするのではなく、
自由に想像してほしいからこそ、少しだけ導いてあげたい。
矛盾しているようて、実はそうでもないかも。
何もない荒野に放り出されて「好きなところへ行っていい」と言われるよりも、一本の道があったほうが、歩き出しやすい。
その道を進むのか、途中で外れるのか、引き返すのか。
それは見る人の自由だ。
私たちが用意するのは、目的地ではなく、最初の一歩を踏み出すための道しるべ。
想像の自由を守ることと、想像を放任することは、きっと違う。
作品に言葉を添えることは、必ずしも野暮なことではない。
その言葉が答えではなく、想像への入り口になっているのなら。
それくらいの親切があってもいいのでは。
そんなことを、イベントが終わる度に感じている。
つのりゅう retweeted
「世界観と空気感」
世界観とは、自分の内側にあるイメージを表現すること。
空気感とは、被写体との関係性の中から生まれるもの。
世界観は、撮影者が何を見て、何を感じ、どんな世界を描きたいのかという、自分自身の内面から生まれる表現。
一方で空気感は、撮影者だけで作れるものではない。
被写体との距離感、交わす言葉、視線、沈黙、そして互いの感情。
その場に流れる時間の中で、二人の関係性が自然と写真ににじみ出てくるものだと思う。
世界観は、自分の中にあるものを外へ向けて表現すること。
空気感は、自分と相手の間にあるものを感じ取り、写し出すこと。
世界観は「創り出すもの」。
空気感は「生まれてくるもの」。
特別な演出がなくても、そこに確かな関係性があれば、写真には言葉で説明できない深さが宿る。
ポートレートが、シンプルでも楽しめるのはそのせいかもしれない。
“ 世界観は写真の姿をつくり、空気感は写真に体温を与える。”
最近そんなことをふと考える。
つのりゅう retweeted
お疲れ様です!
家に帰るまでがリアルポートレート!
今、自宅に到着し無事に終了致しました
16回目を数えるリアルポートレート名古屋
来年もリアポで会いましょう
#リアポ名古屋2026
#RealportraitNAGOYA16
本日最終日です!
好きなカメラマンさん、モデルさん、昨日表彰された方々の作品が見られるのもきっと多くは今日までなので、お見逃しなく✨🙏
リアポ最終日みんなで楽しむぞー✊
10/22(木)からリアポNAGOYAが始まります🙌
今年も団体枠 "ゆうキッズ"で20名のカメラマンさん達と参加します!
個人枠では
いなばさん@OsoujiPhoto
オオツカ家 @tsukamarin
つのりゅうさん @2noRYU
QKさん @q_kondo
ひんさん @hin_hiro
のモデルをさせていただきました
ぜひ見てください✨






























