Pinned Tweet
「中学3年生に、コンドームの使い方まで教える」
京都市立大原野中学校で行われた性教育の授業。教えていたのは、保健体育ではなく数学の教師、三觜なつ美先生だった。
「セックスってみんな…何か知ってる?」
授業では性行為や妊娠について説明するだけでなく、自身の出産映像を生徒に見せ、コンドームメーカーの担当者を招いて正しい使い方まで実践的に教えた。
実は、授業で行ったアンケートでは、約70人のうち25人が「恋人同士なら性行為をしてもよい」と考えていた。
一方、授業後には、コンドームが何に使われるのかさえよく知らなかったと話す生徒もいた。
日本の中学校の学習指導要領には、妊娠の過程を扱わないとする、いわゆる「はどめ規定」がある。ただし、必要な理解や協力を得たうえで、さらに踏み込んだ内容を教えることまで禁止されているわけではない。
4人の子どもを育てる母親でもある三觜先生。
先生が心配していたのは、大人が性の話を避け続けた結果、子どもたちがSNSなどの不確かな情報に頼り、性被害や性加害につながってしまうことだった。
授業を見学した保護者からは、スマートフォンでさまざまな情報に触れる時代だからこそ、学校で正しい知識を学べてよかったという声も上がった。
子どもに性について教えることと、まだ早いからと教えないこと。
中学生を守るために、学校はどこまで教えるべきだと思いますか?
週末の夜、両親は息子を車に乗せ、行き先も決めずに4時間走り続けた。
旅行ではない。楽しむためのドライブでもない。
夜になると大声を上げたり、家の中で飛び跳ねたりする息子のために、週末の3日間、こうした生活を続けていた。
父親は介護のために会社を辞めた。
母親も、息子の身の回りの世話に追われる毎日。
そんな2人が、年齢を重ねるにつれて、ある不安を抱えるようになった。
「自分たちが介護できなくなったら、この子はどうなるのか」
滋賀県守山市に暮らす和田智泰さん。取材開始当時17歳。
重度の知的障害と「強度行動障害」があり、食事、入浴、排泄、着替えなど、生活のあらゆる場面で介助が必要だった。
強度行動障害とは、自分の体を傷つけたり、物を激しく叩いたりするなど、本人や周囲の生活に大きな困難が生じる状態をいう。
父親の進さんは当時58歳、母親の泰代さんは50歳。
進さんは息子の介助を優先するため、数年前に会社を退職。その後は新聞配達と、時間の融通がきく非正規の仕事を掛け持ちしながら家族を支えていた。
夫婦は長年、智泰さんの生活を支えてきた。
けれど、両親も年を取る。体力には限界がある。
いつまでも自分たちだけで息子を支え続けることはできない。
そう考えた夫婦は、智泰さんが特別支援学校の高等部に通っていた頃から、入所できる施設を探し始めた。
ところが、滋賀県内の施設はすべて満床だった。
京都、奈良、石川、岡山。
県外にも足を運び、息子を受け入れてくれる場所を探し続けたが、なかなか見つからなかった。
重い知的障害や強度行動障害のある人を受け入れられる施設は、全国的にも不足していた。
家族がどれほど努力しても、必要な支援につながれない現実があった。
ABCテレビの取材班は、そんな和田さん一家の約2年半を記録した。
そして、長い施設探しの末、智泰さんが暮らせるグループホームが見つかった。
ようやく息子を託せる場所ができた。
それは両親にとって大きな安心であると同時に、これまでずっと一緒に暮らしてきた息子と離れる決断でもあった。
息子を大切に思うからこそ、自分たちだけで抱え込まない道を選ぶ。
しかし、すべての家族が同じように受け入れ先を見つけられるわけではない。
親が高齢になっても、子どもの介助を続けなければならない家庭がある。
親の愛情や努力だけに頼らず、障害のある人が安心して暮らしていくために、社会にはどのような支援が必要なのでしょうか。
「朝起きられないのは、怠けているから」
そう誤解されてきた14歳の少女。
学校に行きたいのに、
朝になると体が動かない。
頭痛やめまいに苦しみ、
起き上がることさえ難しかった。
原因は、中学生の約10人に1人が
発症するといわれる「起立性調節障害」。
それでも彼女は、
13歳で同じ病気の子どもたちを
支える団体を立ち上げた。
横浜市の中山知佳穂さん。
彼女が伝えたかった、
周囲には見えない苦しみとは。
👇続きを読む🙇
teapawt.org/dataanalyst1309/status…
「朝起きられないのは、怠けているから」
そう誤解され、苦しんでいる子どもたちがいる。
学校に行きたいのに、朝になると体が思うように動かない。激しい頭痛やめまい、腹痛に襲われ、起き上がることさえ難しくなる。
実は、中学生の約10人に1人が発症するといわれる病気がある。
その名は「起立性調節障害」。
横浜市に暮らす中山知佳穂さんも、この病気と向き合ってきた一人だ。取材当時14歳。
異変が現れたのは小学6年生の夏ごろ。それまで普通にできていた朝の起床が、突然難しくなった。
自律神経の働きがうまく調整されず、血圧や心拍数の変化に体が対応しにくくなる。
午前中は体調が悪くても、午後になると動けるようになることがある。
そのため、周囲からは「夜更かししているだけ」「学校をサボっている」と誤解されやすい。
知佳穂さんも、体をほとんど動かせない時期があり、中学2年生の頃には学校へ通えない日々が続いた。
友達と会う機会も減り、同じ悩みを抱える人と話すことさえ難しくなっていった。
そんな中、彼女はある行動を起こした。
13歳のとき、自ら「起立性調節障害の子どもたちの会」を立ち上げたのだ。
同じ病気の子どもたちが、安心して悩みを話せる場所を作りたい。
その思いに共感する仲間が集まり、オンラインで交流する活動が始まった。
体調が悪くなりやすい午前中を避け、交流会は夜に開催。
学校に行けない苦しさや、周囲に理解してもらえないつらさを、同じ経験を持つ仲間と共有した。
やがて知佳穂さん自身も、少しずつ昼ごろから学校に通えるようになった。
活動はさらに広がり、病気への理解を深めるための団体「子どもの輪」は、その後NPO法人となった。
自分自身も病気と向き合いながら、同じように苦しむ子どもたちのために声を上げ続けている。
朝起きられない。学校へ行けない。
その姿だけを見れば、努力が足りないと思ってしまう人もいるかもしれない。
けれど、本人がどれほど頑張りたいと思っていても、体がついてこないことがある。
「行きたくない」と「行きたいのに行けない」は、まったく違う。
私たちは、学校に来られない子どもを見たとき、その背景にある事情や苦しさを、どれだけ理解しようとしているでしょうか。
「朝起きられないのは、怠けているから」
そう誤解され、苦しんでいる子どもたちがいる。
学校に行きたいのに、朝になると体が思うように動かない。激しい頭痛やめまい、腹痛に襲われ、起き上がることさえ難しくなる。
実は、中学生の約10人に1人が発症するといわれる病気がある。
その名は「起立性調節障害」。
横浜市に暮らす中山知佳穂さんも、この病気と向き合ってきた一人だ。取材当時14歳。
異変が現れたのは小学6年生の夏ごろ。それまで普通にできていた朝の起床が、突然難しくなった。
自律神経の働きがうまく調整されず、血圧や心拍数の変化に体が対応しにくくなる。
午前中は体調が悪くても、午後になると動けるようになることがある。
そのため、周囲からは「夜更かししているだけ」「学校をサボっている」と誤解されやすい。
知佳穂さんも、体をほとんど動かせない時期があり、中学2年生の頃には学校へ通えない日々が続いた。
友達と会う機会も減り、同じ悩みを抱える人と話すことさえ難しくなっていった。
そんな中、彼女はある行動を起こした。
13歳のとき、自ら「起立性調節障害の子どもたちの会」を立ち上げたのだ。
同じ病気の子どもたちが、安心して悩みを話せる場所を作りたい。
その思いに共感する仲間が集まり、オンラインで交流する活動が始まった。
体調が悪くなりやすい午前中を避け、交流会は夜に開催。
学校に行けない苦しさや、周囲に理解してもらえないつらさを、同じ経験を持つ仲間と共有した。
やがて知佳穂さん自身も、少しずつ昼ごろから学校に通えるようになった。
活動はさらに広がり、病気への理解を深めるための団体「子どもの輪」は、その後NPO法人となった。
自分自身も病気と向き合いながら、同じように苦しむ子どもたちのために声を上げ続けている。
朝起きられない。学校へ行けない。
その姿だけを見れば、努力が足りないと思ってしまう人もいるかもしれない。
けれど、本人がどれほど頑張りたいと思っていても、体がついてこないことがある。
「行きたくない」と「行きたいのに行けない」は、まったく違う。
私たちは、学校に来られない子どもを見たとき、その背景にある事情や苦しさを、どれだけ理解しようとしているでしょうか。
「子どもへの性教育が過激すぎる」
かつて東京の特別支援学校で行われていた性教育が、一部の政治家から厳しく批判された。
授業で使用されていた教材は回収され、教員たちは厳重注意を受けた。
子どもに性行為や避妊について、どこまで教えてよいのか。
その判断をめぐり、教育現場は大きく揺れた。
ところが、その一方で、避妊について十分な知識を持たないまま、14歳で妊娠した少女がいた。
中京テレビのドキュメンタリー「ニッポンの性教育」は、そんな日本の教育現場が抱えてきた問題を追った。
問題となったのは、東京都立七生養護学校で行われていた性教育だった。
知的障害のある子どもたちに、歌や人形などを使って体の仕組みや性について教えていた。
しかし、一部の都議会議員は、その内容が不適切だと批判。東京都教育委員会も教材を回収し、教員への指導を行った。
教員や保護者たちは、教育への不当な介入だとして裁判を起こした。
その後、裁判所は政治家らによる介入を違法と判断し、東京都と都議らに賠償を命じる判決が確定した。
一方、日本の学校には、妊娠に至る過程を通常の授業では扱わないとする、いわゆる「はどめ規定」がある。
ただし、必要に応じて詳しく教えることまで、一律に禁止しているわけではない。
それでも、どこまで説明すればよいのか、教える側が悩む状況は続いてきた。
そんな中、学校だけに任せてはいられないと、自ら子どもたちへの性教育を始めた母親たちがいた。
命がどのように生まれるのか。自分の体をどう守るのか。そして、相手の体や意思を尊重すること。
子どもたちに正しい知識を伝えようと活動を始めたのだ。
また、ある自治体では産婦人科医などの専門家が学校で授業を行い、未成年者の人工妊娠中絶率が大きく低下したことも紹介された。
ただ、その変化が性教育だけによるものかどうかは、慎重に考える必要がある。
番組には、避妊について知らないまま妊娠した14歳の少女も登場する。
子どもに詳しく教えるのは早すぎると考える大人がいる一方で、必要な知識を持たないまま、現実の問題に直面する子どもたちもいる。
性教育は、妊娠の仕組みだけでなく、自分の体を守り、相手を尊重し、困ったときに助けを求めるための学びでもある。
子どもたちを守るために、学校は何歳から、どこまで性について教えるべきなのでしょうか。
「結婚式に来てくれる人が少ないんです。知らない方でもいいので、来てもらえませんか」
幼い頃に父親を亡くし、兄と支え合って育った中国の24歳の青年。
結婚式に呼べる親族は、わずか2〜3卓分だった。
そこで、見知らぬ人たちに向けてSNSで招待を呼びかけた。
すると、想像もしなかったことが起きた。
全国から何千人もの人々が集まり、食べ物や贈り物を持ち寄って、青年の結婚を祝おうとしたのだ。
中国・雲南省に暮らす徐成紅さん(24)。
3歳のとき、父親が病気で亡くなった。5歳で母親が再婚して家を離れ、祖母と3歳年上の兄に支えられて育った。
しかし、7歳のときには、その祖母も亡くなってしまう。
その後は兄と支え合いながら成長し、中学校を中退して働き始めた。
各地で肉体労働やアルバイトを重ね、少しずつお金を貯めてきた。
そして、人生を共に歩みたいと思える女性と出会い、結婚することになった。
ただ、彼には一つの願いがあった。
自分を支えてくれた大切な女性との結婚式を、できるだけ多くの人に祝ってほしかった。
10月25日、徐さんはSNSに動画を投稿した。
来てくれるのは、せいぜい10人か20人だろうと思っていた。
ところが、動画は瞬く間に拡散。
遠く離れた街から、会ったこともない人たちが次々と訪れ始めた。
10月28日には、すでに2000〜3000人が現地に集まったと報じられた。
しかも、人々は手ぶらではなかった。
冷蔵庫や冷凍庫を贈る人。豚や牛を届ける人。自ら料理人として参加し、大勢のために食事を作る人まで現れた。
結婚式の準備を手伝う人たちもいた。
あまりの人数に、当初予定していた会場では対応できなくなり、地元当局の協力で、より広い広場へと場所が変更された。
10月30日には、現地を訪れた人が約2万人に達したとの報道もあった。
ただし、これは結婚式そのものの出席者数ではなく、周辺を訪れた人々の推計だ。
そして10月31日、結婚式の日を迎えた。
わずか数人でも来てくれたらうれしいと考えていた青年のもとに、想像をはるかに超える祝福が集まった。
幼い頃に父を亡くし、家族と離れ離れになる経験を重ねてきた青年。
その人生の大切な節目を、今度は会ったこともない大勢の人たちが祝おうとした。
家族や親戚でなくても、誰かの幸せを心から願い、そのために行動する人たちがいる。
インターネットを通じて生まれた、見知らぬ人同士の温かなつながり。
【ハロウィン特別編 🎃|福島・便槽内怪死事件】
37年前、日本で実際に起きた不可解な死。
今も多くの疑問が残されているこの出来事を、当時の記録から振り返ります。
1989年2月28日、福島県都路村(現在の田村市)。
女性教員が暮らす教員住宅で、26歳の男性が遺体となって発見されました。
ところが、遺体があったのはトイレの床ではありません。汲み取り式トイレの地下に設置された便槽の中だったのです。
便器側の開口部は直径約20センチ。屋外にある汲み取り口でさえ、直径わずか約36センチしかありませんでした。
便槽はU字状の構造で、高さは約125センチ、最も広い部分でも幅は約50センチ。
男性は、その狭い空間の中で膝を曲げ、身体を丸めるような姿勢で発見されたと報じられています。
さらに不可解なのは、真冬にもかかわらず、男性が上半身に衣服を身につけていなかったことです。
男性は、原子力発電所の保守に関わる会社に勤務し、地元の青年会でも活動していた人物でした。
なぜ、その男性が女性教員の住宅の便槽内にいたのでしょうか。
そもそも、どうやってあの狭い場所に入り込んだのでしょうか。
当時の報道によると、警察は狭い空間で身体が圧迫されたことによる呼吸困難と、寒さによる凍死が死因だと判断。また、犯罪に結びつく証拠は見つからなかったとされています。
ただ、男性がなぜ便槽の中に入ることになったのか、その経緯については疑問が残りました。
この出来事をめぐっては、女性教員をのぞこうとしたのではないかという噂や、当時の村長選挙との関係を疑う声もありました。
しかし、これらは当時語られていた噂や推測であり、男性の動機や他殺を裏付ける事実として確認されたものではありません。
警察は死因についての判断を示しました。それでも、なぜ男性がそこにいたのか、どのようにして便槽内に入り込んだのかという疑問は残されたままでした。
皆さんは、この事件を覚えていますか?
直径わずか約36センチ。
その狭い汲み取り口の先で、
26歳の男性が遺体となって発見された。
場所は、女性教員が暮らす住宅の
地下にあるトイレの便槽内。
真冬にもかかわらず、
男性は上半身に服を着ていなかった。
なぜ、そこにいたのか。
どうやって入り込んだのか。
37年前、福島県で実際に起きた
「便槽内怪死事件」。
今も疑問が残る、
不可解な死の真相とは。
👇続きを読む🙇
teapawt.org/dataanalyst1309/status…
【ハロウィン特別編 🎃|福島・便槽内怪死事件】
37年前、日本で実際に起きた不可解な死。
今も多くの疑問が残されているこの出来事を、当時の記録から振り返ります。
1989年2月28日、福島県都路村(現在の田村市)。
女性教員が暮らす教員住宅で、26歳の男性が遺体となって発見されました。
ところが、遺体があったのはトイレの床ではありません。汲み取り式トイレの地下に設置された便槽の中だったのです。
便器側の開口部は直径約20センチ。屋外にある汲み取り口でさえ、直径わずか約36センチしかありませんでした。
便槽はU字状の構造で、高さは約125センチ、最も広い部分でも幅は約50センチ。
男性は、その狭い空間の中で膝を曲げ、身体を丸めるような姿勢で発見されたと報じられています。
さらに不可解なのは、真冬にもかかわらず、男性が上半身に衣服を身につけていなかったことです。
男性は、原子力発電所の保守に関わる会社に勤務し、地元の青年会でも活動していた人物でした。
なぜ、その男性が女性教員の住宅の便槽内にいたのでしょうか。
そもそも、どうやってあの狭い場所に入り込んだのでしょうか。
当時の報道によると、警察は狭い空間で身体が圧迫されたことによる呼吸困難と、寒さによる凍死が死因だと判断。また、犯罪に結びつく証拠は見つからなかったとされています。
ただ、男性がなぜ便槽の中に入ることになったのか、その経緯については疑問が残りました。
この出来事をめぐっては、女性教員をのぞこうとしたのではないかという噂や、当時の村長選挙との関係を疑う声もありました。
しかし、これらは当時語られていた噂や推測であり、男性の動機や他殺を裏付ける事実として確認されたものではありません。
警察は死因についての判断を示しました。それでも、なぜ男性がそこにいたのか、どのようにして便槽内に入り込んだのかという疑問は残されたままでした。
皆さんは、この事件を覚えていますか?
30か所以上の病院を回っても、原因が分からなかった。
全身に激しい痛みが走り、食事も、入浴も、ベッドから起き上がることさえ苦痛になる。
それでも、外見からはその苦しさが伝わらない。
名古屋市に暮らす江夏明希さん。取材当時24歳。
19歳まではスポーツが大好きで、大学に通いながらアルバイトを3つ掛け持ちするほど活発だった。
ところが、ある日、微熱のあとに激痛が始まった。
痛みは足や腰から全身へと広がり、何度検査を受けても原因が分からない。
約1年後、ようやく告げられた病名は「線維筋痛症」。
診察室で涙があふれた。病気が治ったからではない。自分の痛みに、ようやく名前がついたからだった。
一時は車椅子が必要になり、幼い頃から夢見ていた保育士の道も、実習に参加できず諦めざるを得なかった。
つらい日々を支えたのは、家族や友人だった。
自分で食事ができないとき、母親は食べ物を口元まで運んでくれた。
そんな中、明希さんは新しい道を見つける。
タレントとして活動し、自分と同じように「見えない痛み」を抱える人たちの現実を伝え始めたのだ。
撮影中に立っていられなくなることもある。それでも、周囲の支えを受けながら活動を続けている。
笑顔だから、元気そうだからといって、痛みがないわけではない。
私たちは、目に見えない誰かの苦しさを、どれだけ理解しようとしているでしょうか。
週末の夜、4時間。
両親は息子を車に乗せ、
行き先も決めずに走り続けた。
旅行ではない。
楽しむためでもない。
父親は介護のために会社を辞め、
母親も毎日の生活を支え続けた。
しかし、両親も年を取っていく。
息子を預けられる施設を探しても、
どこも満員で見つからない。
重度の知的障害と強度行動障害がある
和田智泰さんと、その家族。
約2年半にわたる取材で見えてきた、
親子が直面した厳しい現実とは。
👇続きを読む🙇
teapawt.org/dataanalyst1309/status…
週末の夜、両親は息子を車に乗せ、行き先も決めずに4時間走り続けた。
旅行ではない。楽しむためのドライブでもない。
夜になると大声を上げたり、家の中で飛び跳ねたりする息子のために、週末の3日間、こうした生活を続けていた。
父親は介護のために会社を辞めた。
母親も、息子の身の回りの世話に追われる毎日。
そんな2人が、年齢を重ねるにつれて、ある不安を抱えるようになった。
「自分たちが介護できなくなったら、この子はどうなるのか」
滋賀県守山市に暮らす和田智泰さん。取材開始当時17歳。
重度の知的障害と「強度行動障害」があり、食事、入浴、排泄、着替えなど、生活のあらゆる場面で介助が必要だった。
強度行動障害とは、自分の体を傷つけたり、物を激しく叩いたりするなど、本人や周囲の生活に大きな困難が生じる状態をいう。
父親の進さんは当時58歳、母親の泰代さんは50歳。
進さんは息子の介助を優先するため、数年前に会社を退職。その後は新聞配達と、時間の融通がきく非正規の仕事を掛け持ちしながら家族を支えていた。
夫婦は長年、智泰さんの生活を支えてきた。
けれど、両親も年を取る。体力には限界がある。
いつまでも自分たちだけで息子を支え続けることはできない。
そう考えた夫婦は、智泰さんが特別支援学校の高等部に通っていた頃から、入所できる施設を探し始めた。
ところが、滋賀県内の施設はすべて満床だった。
京都、奈良、石川、岡山。
県外にも足を運び、息子を受け入れてくれる場所を探し続けたが、なかなか見つからなかった。
重い知的障害や強度行動障害のある人を受け入れられる施設は、全国的にも不足していた。
家族がどれほど努力しても、必要な支援につながれない現実があった。
ABCテレビの取材班は、そんな和田さん一家の約2年半を記録した。
そして、長い施設探しの末、智泰さんが暮らせるグループホームが見つかった。
ようやく息子を託せる場所ができた。
それは両親にとって大きな安心であると同時に、これまでずっと一緒に暮らしてきた息子と離れる決断でもあった。
息子を大切に思うからこそ、自分たちだけで抱え込まない道を選ぶ。
しかし、すべての家族が同じように受け入れ先を見つけられるわけではない。
親が高齢になっても、子どもの介助を続けなければならない家庭がある。
親の愛情や努力だけに頼らず、障害のある人が安心して暮らしていくために、社会にはどのような支援が必要なのでしょうか。
9歳で、両足を切断した。
生まれつき動かせなかった両足。
「もう二度とこんなことはやりたくない」
手術後、深い悲しみを経験した少年。
それでも、彼は諦めなかった。
車いすバスケットボールに挑戦し、
兄と同じコートに立った。
そして、東京オリンピックの
聖火ランナーにまで選ばれた。
将来の夢は、小児科医になること。
鳥取県の長谷川奨(たすく)くん。
両足を失った少年が、
挑戦を続けてきた道のりとは。
👇続きを読む🙇
teapawt.org/dataanalyst1309/status…
9歳のとき、両足を切断する大手術を受けた。
「もう二度とこんなことはやりたくない」
生まれてからずっと自分の体の一部だった両足を失い、深い悲しみを経験した少年。
それでも、彼は前に進むことを諦めなかった。
そんな弟を見て、兄は願った。
「弟と同じコートに立ちたい」
やがて少年は車いすバスケットボールに打ち込み、2021年には東京オリンピックの聖火ランナーに選ばれた。
鳥取県に暮らす長谷川奨(たすく)くん。
生まれつき腰椎がなく、立つことも両足を動かすこともできなかった。
小学3年生の冬、内臓のためのスペースを確保する目的で、太ももの骨を使って体を支える大きな手術を受けた。
動かすことはできなくても、生まれたときから一緒だった両足。
それを失うつらさは、簡単に受け入れられるものではなかった。
手術後は懸命にリハビリに取り組み、翌年、車いすバスケットボールと出会った。
地元のチームに入り、仲間と一緒にプレーする楽しさを知った奨くん。
その姿を見た兄の新さんも、同じチームに入団した。
兄弟で同じコートに立ち、ボールを追いかける。
奨くんの挑戦は、それだけでは終わらなかった。
車いすマラソンやボルダリングにも挑み、勉強にも熱心に取り組んだ。
そして、将来の夢は「小児科医になること」。
幼い頃から何度も医療を受けてきた少年が、今度は自分が子どもたちを支える医師になりたいと願っていた。
さらに、東京オリンピックの聖火リレーでは、100メートルの区間を担当した。
家族や仲間に支えられながら、自分の可能性を一つずつ広げてきた奨くん。
そんな彼は、自分にとって障害とは何かを尋ねられ、こう答えている。
「自分を強くしてくれた存在」
もちろん、手術のつらさや日常生活での不便さが消えたわけではない。
それでも、奨くんは自分のやりたいことを見つけ、挑戦を重ねてきた。
できないことがあっても、夢まで諦める必要はない。
その姿は、障害の有無にかかわらず、人にはさまざまな可能性があることを教えてくれる。
私たちは、誰かの「できないこと」ではなく、その人が持つ可能性に、どれだけ目を向けられているでしょうか。
9歳のとき、両足を切断する大手術を受けた。
「もう二度とこんなことはやりたくない」
生まれてからずっと自分の体の一部だった両足を失い、深い悲しみを経験した少年。
それでも、彼は前に進むことを諦めなかった。
そんな弟を見て、兄は願った。
「弟と同じコートに立ちたい」
やがて少年は車いすバスケットボールに打ち込み、2021年には東京オリンピックの聖火ランナーに選ばれた。
鳥取県に暮らす長谷川奨(たすく)くん。
生まれつき腰椎がなく、立つことも両足を動かすこともできなかった。
小学3年生の冬、内臓のためのスペースを確保する目的で、太ももの骨を使って体を支える大きな手術を受けた。
動かすことはできなくても、生まれたときから一緒だった両足。
それを失うつらさは、簡単に受け入れられるものではなかった。
手術後は懸命にリハビリに取り組み、翌年、車いすバスケットボールと出会った。
地元のチームに入り、仲間と一緒にプレーする楽しさを知った奨くん。
その姿を見た兄の新さんも、同じチームに入団した。
兄弟で同じコートに立ち、ボールを追いかける。
奨くんの挑戦は、それだけでは終わらなかった。
車いすマラソンやボルダリングにも挑み、勉強にも熱心に取り組んだ。
そして、将来の夢は「小児科医になること」。
幼い頃から何度も医療を受けてきた少年が、今度は自分が子どもたちを支える医師になりたいと願っていた。
さらに、東京オリンピックの聖火リレーでは、100メートルの区間を担当した。
家族や仲間に支えられながら、自分の可能性を一つずつ広げてきた奨くん。
そんな彼は、自分にとって障害とは何かを尋ねられ、こう答えている。
「自分を強くしてくれた存在」
もちろん、手術のつらさや日常生活での不便さが消えたわけではない。
それでも、奨くんは自分のやりたいことを見つけ、挑戦を重ねてきた。
できないことがあっても、夢まで諦める必要はない。
その姿は、障害の有無にかかわらず、人にはさまざまな可能性があることを教えてくれる。
私たちは、誰かの「できないこと」ではなく、その人が持つ可能性に、どれだけ目を向けられているでしょうか。
顔の見た目を理由に、就職を断られた。
幼い頃から何度もいじめられ、40回以上の手術を受けてきた女性。
大人になっても、彼女を苦しめる偏見はなくならなかった。
「本当に幸せになれるのかな…」
そう悩んでいた彼女に、ある男性が忘れられない言葉をかけた。
富山県南砺市に暮らす河除静香(かわよけ・しずか)さん。
生まれつき、顔の血管に異常が生じる「顔面動静脈奇形」という病気を抱えている。
鼻や上唇に異常な血管の塊ができ、顔の形にも影響が出た。大量の鼻血に苦しむこともあり、生後わずか3か月で初めての手術を受けた。
幼い頃は入退院の繰り返し。4歳になるまでは、1年間で自宅にいられたのが合計2か月ほどだったという。
けれど、静香さんにとって、病気と同じくらいつらかったのが周囲の人たちの言葉だった。
保育園では仲間外れにされ、「アヒルのガーコ」と呼ばれた。
学校でも「気持ち悪い」「ばい菌がうつる」といった言葉を浴びせられた。
中学生の頃には、同級生から「お前には基本的人権はない」とまで言われたという。
成長しても、その苦しみは終わらなかった。
就職活動では外見を理由に採用を断られ、人から顔を見られることが怖くなった。
外出するときにはマスクが手放せず、恋愛や結婚についても不安を抱えていた。
そんな静香さんが25歳の頃、職場で知り合った悟さんという男性と交際を始めた。
付き合い始めて約1か月が経った頃、悟さんは静香さんに、なぜ顔の病気について話してくれないのかと尋ねた。
静香さんは、自分の病気のこと、これまで受けてきたいじめ、そして外を歩くときに感じる周囲の視線への恐怖を打ち明けた。
その話を聞いた悟さんは、こう答えた。
「それなら、おれが着ぐるみを着て隣を歩く」
自分に向けられる視線がつらいのなら、代わりに自分が目立てばいい。
そんな気持ちが込められた言葉だった。
静香さんは、その優しさがうれしかった。
2人はその後、結婚した。
ただ、結婚したことで病気が治ったわけでも、周囲の偏見が消えたわけでもない。
それでも静香さんは、自分の経験を誰かのために生かそうと、新しい一歩を踏み出した。
自らが経験したいじめや差別を題材に、一人芝居を始めたのだ。
かつては人の視線を恐れ、マスクで顔を隠していた女性が、今度は自分から舞台に立ち、観客の前で人生を語るようになった。
学校での公演も行い、子どもたちに外見だけで人を判断することの怖さを伝えている。
今も治療を続けながら、演劇への挑戦を重ねている静香さん。
変えなければならないのは、彼女の顔ではなく、外見だけで人の価値を決めつけてしまう私たちの見方なのかもしれない。
もし、誰かの外見を理由に、その人の可能性まで奪ってしまう社会があるとしたら、私たちは何から変えていくべきなのでしょうか。
19歳まで、スポーツが大好きだった。
ところが突然、
全身に激しい痛みが走り始めた。
30か所以上の病院を訪ねても、
原因が分からない。
やがて車椅子が必要になり、
保育士になる夢も諦めた。
ようやく分かった病名は、
「線維筋痛症」。
それでも彼女は、
新たな夢に向かって歩き始めた。
見えない痛みと闘いながら、
タレントとして活動する
江夏明希さん(当時24歳)。
彼女がどうしても伝えたかった思いとは。
👇続きを読む🙇
teapawt.org/dataanalyst1309/status…
30か所以上の病院を回っても、原因が分からなかった。
全身に激しい痛みが走り、食事も、入浴も、ベッドから起き上がることさえ苦痛になる。
それでも、外見からはその苦しさが伝わらない。
名古屋市に暮らす江夏明希さん。取材当時24歳。
19歳まではスポーツが大好きで、大学に通いながらアルバイトを3つ掛け持ちするほど活発だった。
ところが、ある日、微熱のあとに激痛が始まった。
痛みは足や腰から全身へと広がり、何度検査を受けても原因が分からない。
約1年後、ようやく告げられた病名は「線維筋痛症」。
診察室で涙があふれた。病気が治ったからではない。自分の痛みに、ようやく名前がついたからだった。
一時は車椅子が必要になり、幼い頃から夢見ていた保育士の道も、実習に参加できず諦めざるを得なかった。
つらい日々を支えたのは、家族や友人だった。
自分で食事ができないとき、母親は食べ物を口元まで運んでくれた。
そんな中、明希さんは新しい道を見つける。
タレントとして活動し、自分と同じように「見えない痛み」を抱える人たちの現実を伝え始めたのだ。
撮影中に立っていられなくなることもある。それでも、周囲の支えを受けながら活動を続けている。
笑顔だから、元気そうだからといって、痛みがないわけではない。
私たちは、目に見えない誰かの苦しさを、どれだけ理解しようとしているでしょうか。
小学生になっても、身長はわずか80センチほどだった。
生まれてからずっと、感染症を防ぐためにマスクが欠かせない。
幼い頃から何度も激しい炎症に苦しみ、成長することさえ難しかった。
それでも、彼は自分の可能性を諦めなかった。
福井県坂井市に暮らす菴連也(いほり・れんや)さん。2021年の取材当時、20歳。
連也さんが生まれながらに抱えているのは、「高IgD症候群」という極めて珍しい難病だった。
当時、日本国内で確認されていた患者はわずか10人ほど。
慢性的な炎症が続き、感染症をきっかけに全身で激しい炎症が起こることもある。根本的な治療法も確立されていなかった。
連也さんは幼い頃から、炎症を抑えるために大量のステロイドを使用してきた。
その副作用や病気による慢性的な炎症の影響で、身長はなかなか伸びなかった。
ほかの子どもたちが成長していく中、小学生になっても身長は80センチ前後。
体の痛みが強く、苦しい時間もあった。
そんなとき、連也さんが手に取ったのは画用紙とペンだった。
絵を描くことが得意だった彼は、痛みを紛らわせるように、自分の思いを絵に表していたという。
家族や友人に支えられながら学校生活を送り、やがて高校を卒業。
新しい薬によって体調も少しずつ安定し、身長もわずかながら伸びた。
そして就職し、社会人としての生活を始めた。
ところが、ここで新たな壁に直面する。
新型コロナウイルスの感染拡大だった。
多くの人が初めて感染症への恐怖を感じ、マスクを着けるようになった時期。
連也さんにとっては、生まれてからずっと向き合ってきた恐怖でもあった。
感染リスクへの懸念から、就職して2年目に仕事を辞めることになった。
ようやく踏み出した社会人生活だったが、思い描いていた道をそのまま進むことはできなかった。
それでも、連也さんは新しい楽しみを見つけていた。
写真を撮ることだった。
カメラを通して自分の好きなものを見つめ、新しい可能性を探し始めた。
福井放送の取材班は、そんな連也さんと家族の歩みを約10年間にわたって記録してきた。
あるとき、取材したディレクターが連也さんに尋ねた。
コロナ禍で、何を大切にしているのか。
連也さんの答えは、
「人とのつながり、出会うこと」
だった。
人との接触に気を配り、感染症を警戒しながら生きてきた20年間。
それでも彼が大切にしていたのは、人との出会いだった。
病気が治ったわけではない。これからも体調に気を配りながら生活していく必要がある。
ただ、病気によってできないことがあっても、それが彼の人生のすべてではなかった。
私たちは、病気や障害のある人の「できないこと」だけでなく、その人が本当にやりたいことにも、十分に目を向けられているでしょうか。
30か所以上の病院を回っても、
原因が分からなかった。
全身を襲う激しい痛み。
食事も、入浴も、
ベッドから起き上がることさえ苦痛だった。
一時は車椅子での生活となり、
幼い頃からの夢も諦めた。
それでも、彼女は新しい道を見つけた。
外見からは分からない病気、
「線維筋痛症」と向き合う
江夏明希さん(当時24歳)。
彼女が伝えたい、
誰にも見えない痛みとは。
👇続きを読む🙇
teapawt.org/dataanalyst1309/status…
30か所以上の病院を回っても、原因が分からなかった。
全身に激しい痛みが走り、食事も、入浴も、ベッドから起き上がることさえ苦痛になる。
それでも、外見からはその苦しさが伝わらない。
名古屋市に暮らす江夏明希さん。取材当時24歳。
19歳まではスポーツが大好きで、大学に通いながらアルバイトを3つ掛け持ちするほど活発だった。
ところが、ある日、微熱のあとに激痛が始まった。
痛みは足や腰から全身へと広がり、何度検査を受けても原因が分からない。
約1年後、ようやく告げられた病名は「線維筋痛症」。
診察室で涙があふれた。病気が治ったからではない。自分の痛みに、ようやく名前がついたからだった。
一時は車椅子が必要になり、幼い頃から夢見ていた保育士の道も、実習に参加できず諦めざるを得なかった。
つらい日々を支えたのは、家族や友人だった。
自分で食事ができないとき、母親は食べ物を口元まで運んでくれた。
そんな中、明希さんは新しい道を見つける。
タレントとして活動し、自分と同じように「見えない痛み」を抱える人たちの現実を伝え始めたのだ。
撮影中に立っていられなくなることもある。それでも、周囲の支えを受けながら活動を続けている。
笑顔だから、元気そうだからといって、痛みがないわけではない。
私たちは、目に見えない誰かの苦しさを、どれだけ理解しようとしているでしょうか。
小学生になっても、
身長はわずか80センチほどだった。
何度も襲う激しい炎症。
感染症を防ぐため、マスクが欠かせない生活。
それでも高校を卒業し、
ようやく社会人になった。
しかし、感染症の流行で
その仕事も辞めることになった。
それでも、彼は諦めなかった。
国内でも患者が約10人という難病、
「高IgD症候群」と闘ってきた菴連也さん。
20年間、困難と向き合い続けた彼が
見つけた大切なものとは。
👇続きを読む🙇
teapawt.org/dataanalyst1309/status…
小学生になっても、身長はわずか80センチほどだった。
生まれてからずっと、感染症を防ぐためにマスクが欠かせない。
幼い頃から何度も激しい炎症に苦しみ、成長することさえ難しかった。
それでも、彼は自分の可能性を諦めなかった。
福井県坂井市に暮らす菴連也(いほり・れんや)さん。2021年の取材当時、20歳。
連也さんが生まれながらに抱えているのは、「高IgD症候群」という極めて珍しい難病だった。
当時、日本国内で確認されていた患者はわずか10人ほど。
慢性的な炎症が続き、感染症をきっかけに全身で激しい炎症が起こることもある。根本的な治療法も確立されていなかった。
連也さんは幼い頃から、炎症を抑えるために大量のステロイドを使用してきた。
その副作用や病気による慢性的な炎症の影響で、身長はなかなか伸びなかった。
ほかの子どもたちが成長していく中、小学生になっても身長は80センチ前後。
体の痛みが強く、苦しい時間もあった。
そんなとき、連也さんが手に取ったのは画用紙とペンだった。
絵を描くことが得意だった彼は、痛みを紛らわせるように、自分の思いを絵に表していたという。
家族や友人に支えられながら学校生活を送り、やがて高校を卒業。
新しい薬によって体調も少しずつ安定し、身長もわずかながら伸びた。
そして就職し、社会人としての生活を始めた。
ところが、ここで新たな壁に直面する。
新型コロナウイルスの感染拡大だった。
多くの人が初めて感染症への恐怖を感じ、マスクを着けるようになった時期。
連也さんにとっては、生まれてからずっと向き合ってきた恐怖でもあった。
感染リスクへの懸念から、就職して2年目に仕事を辞めることになった。
ようやく踏み出した社会人生活だったが、思い描いていた道をそのまま進むことはできなかった。
それでも、連也さんは新しい楽しみを見つけていた。
写真を撮ることだった。
カメラを通して自分の好きなものを見つめ、新しい可能性を探し始めた。
福井放送の取材班は、そんな連也さんと家族の歩みを約10年間にわたって記録してきた。
あるとき、取材したディレクターが連也さんに尋ねた。
コロナ禍で、何を大切にしているのか。
連也さんの答えは、
「人とのつながり、出会うこと」
だった。
人との接触に気を配り、感染症を警戒しながら生きてきた20年間。
それでも彼が大切にしていたのは、人との出会いだった。
病気が治ったわけではない。これからも体調に気を配りながら生活していく必要がある。
ただ、病気によってできないことがあっても、それが彼の人生のすべてではなかった。
私たちは、病気や障害のある人の「できないこと」だけでなく、その人が本当にやりたいことにも、十分に目を向けられているでしょうか。
「食事が出る。寝る場所もある。お風呂にも入れる。至れり尽くせり、最高じゃないですか」
そう語ったのは、3度目の服役をしていた85歳の女性。
一方、94歳で刑務所を出所した女性は、わずか2か月後に再び刑務所へ戻ってきた。
なぜ、人生の最期に近づいても、刑務所に戻る人が後を絶たないのだろうか。
山口県にある岩国刑務所。約200人の女性受刑者が暮らす施設に、TBSの取材カメラが入った。
そこで見えてきたのは、急速に進む高齢化と、何度も犯罪を繰り返す女性たちの現実だった。
取材当時、全国の女性受刑者は約3700人。岩国刑務所では、窃盗や覚醒剤に関する犯罪で服役する人が約8割を占めていた。
ある85歳の女性は、万引きを繰り返してきた理由について語った。
店に入るときは盗むつもりがなくても、途中でお金を払うのがばからしくなってしまうという。
もう万引きをしないと、自分でも約束できない。
また、15歳から覚醒剤を使い始め、9回も服役した50代後半の女性もいた。
人生の約半分を刑務所で過ごした彼女は、もし次に戻ってきたら、生きて出られないかもしれないと話していた。
もちろん、刑務所は自由な場所ではない。
起床から就寝まで厳しい規則があり、入浴は週3回。私語も制限され、家族とのつながりを失ったまま過ごす人もいる。
中には、殺人などの重大な犯罪で長い刑期を過ごしている女性もいた。
忘れてはならないのは、犯罪によって傷つけられた被害者や、その家族の存在だ。
一方で、取材が浮き彫りにしたのは、刑期を終えれば誰もが普通の生活に戻れるわけではないという現実だった。
高齢になり、頼れる家族も少なくなり、社会とのつながりを失っていく。
刑務所の外で生活を立て直すことができず、再び罪を犯してしまう人たち。
犯罪には責任が伴う。けれど、出所後の生活を支える仕組みが十分でなければ、再犯によって新たな被害者が生まれることにもつながる。
94歳で出所し、わずか2か月後に戻ってきた女性。
そして、刑務所での暮らしを「最高」と語った85歳の女性。
この言葉を、私たちはどう受け止めればいいのだろう。
罪を償った人が再び犯罪に手を染めないために、社会にはどのような支えが必要なのでしょうか。
顔の見た目を理由に、
就職を断られた。
幼い頃からいじめに苦しみ、
40回以上の手術を受けてきた。
「本当に幸せになれるのかな…」
そんな彼女に、
ある男性がこう言った。
「俺が着ぐるみを着て隣を歩く」
顔面動静脈奇形という難病を抱える
河除静香さん。
彼女の人生を変えた、
忘れられない言葉とは。
👇続きを読む🙇
teapawt.org/dataanalyst1309/status…
顔の見た目を理由に、就職を断られた。
幼い頃から何度もいじめられ、40回以上の手術を受けてきた女性。
大人になっても、彼女を苦しめる偏見はなくならなかった。
「本当に幸せになれるのかな…」
そう悩んでいた彼女に、ある男性が忘れられない言葉をかけた。
富山県南砺市に暮らす河除静香(かわよけ・しずか)さん。
生まれつき、顔の血管に異常が生じる「顔面動静脈奇形」という病気を抱えている。
鼻や上唇に異常な血管の塊ができ、顔の形にも影響が出た。大量の鼻血に苦しむこともあり、生後わずか3か月で初めての手術を受けた。
幼い頃は入退院の繰り返し。4歳になるまでは、1年間で自宅にいられたのが合計2か月ほどだったという。
けれど、静香さんにとって、病気と同じくらいつらかったのが周囲の人たちの言葉だった。
保育園では仲間外れにされ、「アヒルのガーコ」と呼ばれた。
学校でも「気持ち悪い」「ばい菌がうつる」といった言葉を浴びせられた。
中学生の頃には、同級生から「お前には基本的人権はない」とまで言われたという。
成長しても、その苦しみは終わらなかった。
就職活動では外見を理由に採用を断られ、人から顔を見られることが怖くなった。
外出するときにはマスクが手放せず、恋愛や結婚についても不安を抱えていた。
そんな静香さんが25歳の頃、職場で知り合った悟さんという男性と交際を始めた。
付き合い始めて約1か月が経った頃、悟さんは静香さんに、なぜ顔の病気について話してくれないのかと尋ねた。
静香さんは、自分の病気のこと、これまで受けてきたいじめ、そして外を歩くときに感じる周囲の視線への恐怖を打ち明けた。
その話を聞いた悟さんは、こう答えた。
「それなら、おれが着ぐるみを着て隣を歩く」
自分に向けられる視線がつらいのなら、代わりに自分が目立てばいい。
そんな気持ちが込められた言葉だった。
静香さんは、その優しさがうれしかった。
2人はその後、結婚した。
ただ、結婚したことで病気が治ったわけでも、周囲の偏見が消えたわけでもない。
それでも静香さんは、自分の経験を誰かのために生かそうと、新しい一歩を踏み出した。
自らが経験したいじめや差別を題材に、一人芝居を始めたのだ。
かつては人の視線を恐れ、マスクで顔を隠していた女性が、今度は自分から舞台に立ち、観客の前で人生を語るようになった。
学校での公演も行い、子どもたちに外見だけで人を判断することの怖さを伝えている。
今も治療を続けながら、演劇への挑戦を重ねている静香さん。
変えなければならないのは、彼女の顔ではなく、外見だけで人の価値を決めつけてしまう私たちの見方なのかもしれない。
もし、誰かの外見を理由に、その人の可能性まで奪ってしまう社会があるとしたら、私たちは何から変えていくべきなのでしょうか。
「食事が出る。
寝る場所もある。
お風呂にも入れる。
最高じゃないですか」
そう語ったのは、
3度目の服役をしていた85歳の女性。
一方、94歳で刑務所を出た女性は、
わずか2か月後に再び戻ってきた。
全国に約3700人いる女性受刑者。
なぜ、高齢になっても
刑務所に戻る人がいるのか。
女子刑務所の内部で見えてきた、
知られざる現実とは。
👇続きを読む🙇
teapawt.org/dataanalyst1309/status…
「食事が出る。寝る場所もある。お風呂にも入れる。至れり尽くせり、最高じゃないですか」
そう語ったのは、3度目の服役をしていた85歳の女性。
一方、94歳で刑務所を出所した女性は、わずか2か月後に再び刑務所へ戻ってきた。
なぜ、人生の最期に近づいても、刑務所に戻る人が後を絶たないのだろうか。
山口県にある岩国刑務所。約200人の女性受刑者が暮らす施設に、TBSの取材カメラが入った。
そこで見えてきたのは、急速に進む高齢化と、何度も犯罪を繰り返す女性たちの現実だった。
取材当時、全国の女性受刑者は約3700人。岩国刑務所では、窃盗や覚醒剤に関する犯罪で服役する人が約8割を占めていた。
ある85歳の女性は、万引きを繰り返してきた理由について語った。
店に入るときは盗むつもりがなくても、途中でお金を払うのがばからしくなってしまうという。
もう万引きをしないと、自分でも約束できない。
また、15歳から覚醒剤を使い始め、9回も服役した50代後半の女性もいた。
人生の約半分を刑務所で過ごした彼女は、もし次に戻ってきたら、生きて出られないかもしれないと話していた。
もちろん、刑務所は自由な場所ではない。
起床から就寝まで厳しい規則があり、入浴は週3回。私語も制限され、家族とのつながりを失ったまま過ごす人もいる。
中には、殺人などの重大な犯罪で長い刑期を過ごしている女性もいた。
忘れてはならないのは、犯罪によって傷つけられた被害者や、その家族の存在だ。
一方で、取材が浮き彫りにしたのは、刑期を終えれば誰もが普通の生活に戻れるわけではないという現実だった。
高齢になり、頼れる家族も少なくなり、社会とのつながりを失っていく。
刑務所の外で生活を立て直すことができず、再び罪を犯してしまう人たち。
犯罪には責任が伴う。けれど、出所後の生活を支える仕組みが十分でなければ、再犯によって新たな被害者が生まれることにもつながる。
94歳で出所し、わずか2か月後に戻ってきた女性。
そして、刑務所での暮らしを「最高」と語った85歳の女性。
この言葉を、私たちはどう受け止めればいいのだろう。
罪を償った人が再び犯罪に手を染めないために、社会にはどのような支えが必要なのでしょうか。

