
非球面レンズおきつねの「アスフェリカル」だよ🦊 📸→𝗣𝗘𝗡𝗧𝗔𝗫 K-1 アイコンはすぅけくん@Suke20_tkより ヘッダーはフィーカくん@whitefikaより
奈良
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アスフェリカル🐾 retweeted
本来モノハル(単胴船)というのは尖った船底で水面を切り裂き、外洋でも安定して走行できるのが特徴のハズなんですが...
ピローニの愛艇コリブリはその安定性をかなぐり捨て、カタマラン(双胴船)の如くほとんど船尾のプロペラだけで接水しながらトビウオのように疾走する狂気のフネでありました
'82年の悲劇から5年、F1復帰を断念したディディエ・ピローニはオフショアパワーボートレースに活動の場を移すことを決意。
かねてからスピードボートの輸入を手掛けていた彼は、サントロペの自身の拠点にレーシングチーム"Leader Racing"を設立、オフショアレーサーとしてのキャリアをスタートした。
初年度である'86年シーズンは競技経験を積む事に専念し、愛艇アバーテ41でヨーロッパ選手権に参戦。この年、彼は肋骨4本を折るクラッシュを経験するなど早くもオフショアの洗礼を受けている。
翌'87年、ピローニは満を持してオリジナルのパワーボートを世界選手権に送り出す。
彼が競技用ヨットメーカーのACX社に作らせた「コリブリ」は当時としては非常に先進的なフルコンポジット製のモノハルであった。
何よりも特徴的なのは、尖った船底で水面を切り裂き安定性を高める一般的な”ディープV”スタイルのモノハルとは異なり、船体後部にステップを設け、更にその後方に平坦なキールスキッドを置き、高速時はまるでハイドロプレーンのように水面から浮き上がり、殆ど船尾のスクリューのみで接水した状態で走行し摩擦抵抗を極限まで減らすという、非常に攻めた設計を採用していたことだろう。
安定性の確保に必要なストレーキも船体の前半部にしか取り付けられておらず、直進時でも激しくロールしながら水面を滑走する非常にピーキーな特性であったとされる。
さらに驚くべきことに、本艇は重量を徹底的に削りとるためにエンジンのヒートエクスチェンジャーすら撤廃している。冷却のためにエンジンが直に海水に晒されるために、まるでドラッグスターのごとく1レースごとのオーバーホールが求められたという。
こうして完成した僅か3.5トンの細身の船体に780馬力を発生するランボルギーニV12を2基搭載したコリブリ号は驚異的なパワーウェイトレシオを実現。そのトップスピードは200km/h以上にも達したという。
マシン性能もさることながら、この年のLeaderはクルー構成も大きな話題となった。
ピローニが舵を取り、ナビゲーターはアリ・バタネンのコ・ドライバーとしてダカール制覇も果たしたベルナール・ジルー、スロットルマンは元リジェF1のジャン=クロード・ゲナールが担当。当時のモータースポーツ界のビッグネームが揃ったまさにドリームチームといった様相であった。
大きな期待と共に発進したLeader陣営は、シーズン序盤のスペインで5位入賞と幸先の良いスタートを切るものの、以降はエンジンやミッションのトラブルや荒れたコンディションでの安定性不足で勝利を逃すレースが続く。しかし、その美しい船体と身をよじりながら波から波へと飛び移るアグレッシブな走りで次第にファンを魅了していった。
そして、1987年8月9日、真夏のアーレンダルで開催されたノルウェーGPにてついに真価が発揮される。
驚異的な加速力でスタート直後から首位を奪取したコリブリはアーレンダルの穏やかな海上でその快速ぶりを遺憾無く発揮し、ついに念願の初勝利を獲得する。
こうして一躍タイトル候補の一角として名乗りを上げたピローニの元には、古巣フェラーリのエンツォからも祝電が届いていた。
ところが、彼のレースキャリアはまたしても突如として終わりを告げる。
ノルウェーでの勝利の2週間後、1987年8月23日。ワイト島で開催されるニードルス・トロフィーにて、首位を猛追するピローニは、オーバーテイクを狙いチェックポイントを大きくインに切り込みながらターンイン。運の悪いことに、そこには前を行くタンカーが引き起こした航跡波が残っていた。
軽量なコリブリはスロットル全開のまま宙に舞い上がり、上下逆さまのまま激しく着水。
オープンコックピットであるが故、高速で水面に叩きつけられた3人のクルーは衝撃で即死していた。
皮肉な事に、強靭なカーボン素材で建造された船体はほぼ無傷であった。
修復されたコリブリはほぼ同仕様のまま”Leader-Elf”と改名され、同年のキーウェストへピローニの盟友であったジャン=ピエール・ジャリエと共に参戦する。
このレースでも抜群のスタートダッシュで3ヒート連続で一時トップに立つも、最終結果は全てDNFに終わった。ある意味このリザルトこそがコリブリ号の極端な性能を物語っているとも言えよう。
Leader-Elfは翌年以降も元ドラッグレーサーのボブ・フィーラーといったドライバーと共に戦い続けるも、ついにスティーヴ・カーティスのクーガーやファビオ・ブッツィのCESA 1882といったライバルに太刀打ちする事は叶わず1990年にレースを引退している。
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'82年の悲劇から5年、F1復帰を断念したディディエ・ピローニはオフショアパワーボートレースに活動の場を移すことを決意。
かねてからスピードボートの輸入を手掛けていた彼は、サントロペの自身の拠点にレーシングチーム"Leader Racing"を設立、オフショアレーサーとしてのキャリアをスタートした。
初年度である'86年シーズンは競技経験を積む事に専念し、愛艇アバーテ41でヨーロッパ選手権に参戦。この年、彼は肋骨4本を折るクラッシュを経験するなど早くもオフショアの洗礼を受けている。
翌'87年、ピローニは満を持してオリジナルのパワーボートを世界選手権に送り出す。
彼が競技用ヨットメーカーのACX社に作らせた「コリブリ」は当時としては非常に先進的なフルコンポジット製のモノハルであった。
何よりも特徴的なのは、尖った船底で水面を切り裂き安定性を高める一般的な”ディープV”スタイルのモノハルとは異なり、船体後部にステップを設け、更にその後方に平坦なキールスキッドを置き、高速時はまるでハイドロプレーンのように水面から浮き上がり、殆ど船尾のスクリューのみで接水した状態で走行し摩擦抵抗を極限まで減らすという、非常に攻めた設計を採用していたことだろう。
安定性の確保に必要なストレーキも船体の前半部にしか取り付けられておらず、直進時でも激しくロールしながら水面を滑走する非常にピーキーな特性であったとされる。
さらに驚くべきことに、本艇は重量を徹底的に削りとるためにエンジンのヒートエクスチェンジャーすら撤廃している。冷却のためにエンジンが直に海水に晒されるために、まるでドラッグスターのごとく1レースごとのオーバーホールが求められたという。
こうして完成した僅か3.5トンの細身の船体に780馬力を発生するランボルギーニV12を2基搭載したコリブリ号は驚異的なパワーウェイトレシオを実現。そのトップスピードは200km/h以上にも達したという。
マシン性能もさることながら、この年のLeaderはクルー構成も大きな話題となった。
ピローニが舵を取り、ナビゲーターはアリ・バタネンのコ・ドライバーとしてダカール制覇も果たしたベルナール・ジルー、スロットルマンは元リジェF1のジャン=クロード・ゲナールが担当。当時のモータースポーツ界のビッグネームが揃ったまさにドリームチームといった様相であった。
大きな期待と共に発進したLeader陣営は、シーズン序盤のスペインで5位入賞と幸先の良いスタートを切るものの、以降はエンジンやミッションのトラブルや荒れたコンディションでの安定性不足で勝利を逃すレースが続く。しかし、その美しい船体と身をよじりながら波から波へと飛び移るアグレッシブな走りで次第にファンを魅了していった。
そして、1987年8月9日、真夏のアーレンダルで開催されたノルウェーGPにてついに真価が発揮される。
驚異的な加速力でスタート直後から首位を奪取したコリブリはアーレンダルの穏やかな海上でその快速ぶりを遺憾無く発揮し、ついに念願の初勝利を獲得する。
こうして一躍タイトル候補の一角として名乗りを上げたピローニの元には、古巣フェラーリのエンツォからも祝電が届いていた。
ところが、彼のレースキャリアはまたしても突如として終わりを告げる。
ノルウェーでの勝利の2週間後、1987年8月23日。ワイト島で開催されるニードルス・トロフィーにて、首位を猛追するピローニは、オーバーテイクを狙いチェックポイントを大きくインに切り込みながらターンイン。運の悪いことに、そこには前を行くタンカーが引き起こした航跡波が残っていた。
軽量なコリブリはスロットル全開のまま宙に舞い上がり、上下逆さまのまま激しく着水。
オープンコックピットであるが故、高速で水面に叩きつけられた3人のクルーは衝撃で即死していた。
皮肉な事に、強靭なカーボン素材で建造された船体はほぼ無傷であった。
修復されたコリブリはほぼ同仕様のまま”Leader-Elf”と改名され、同年のキーウェストへピローニの盟友であったジャン=ピエール・ジャリエと共に参戦する。
このレースでも抜群のスタートダッシュで3ヒート連続で一時トップに立つも、最終結果は全てDNFに終わった。ある意味このリザルトこそがコリブリ号の極端な性能を物語っているとも言えよう。
Leader-Elfは翌年以降も元ドラッグレーサーのボブ・フィーラーといったドライバーと共に戦い続けるも、ついにスティーヴ・カーティスのクーガーやファビオ・ブッツィのCESA 1882といったライバルに太刀打ちする事は叶わず1990年にレースを引退している。


















