娘から「『まずまず御茶進上申せ。もみぢにたてて参らせよ』と言われて京都の人は理解できてるものなの?」と質問された。
いや、無理ですw
もみぢ->紅葉->こうよう->濃う好う(近畿の語尾変換、濃くは濃うになる)
思い出したのですが、若い頃、留守番電話に延々とこの憂歌団の「胸が痛い」が録音されていたことがありました。というくらいユニークな女性に鍛えられたので、私はだいぶタフです。安心してください。
music.apple.com/jp/album/%E8…
Replying to @carnappopper
そういえば、昔、僕が身につけていたものを女性に盗まれたことがありました。私はそのことに気がついてなかったのですが、後日、本人が返してきたの。盗んだ理由は僕の匂いをかぎたかったから。
ということでポロシャツが欲しい人がいたらあげます。黒魔術以外なら好きに使ってもらって結構です🤠
京都市右京区の嵯峨うまれの井上章一先生も、京都人あつかいされないことから「京都ぎらい」を執筆されておりますので…
otaku-son.hatenablog.com/ent…
マリアージュフレールは、京都のBALで知ってここの接客が好きで長年利用しています。関東に移ってからはこの銀座店によく行っていましたが、最近は仕事の都合で新宿ばっかりになったなぁ。でも新宿店の接客も好きですよ。
パプアニューギニアで降りる場所がわからず、ついに終点まで行ってしまい、運転手さんに「どこにいきたかったの?」と問われ、「いやー安宿のあるところならどこでも良かったんだけどね…」と行き先を決めたかっただけなのに、「よっしゃ!一緒に宿を探したろ!」と路線バスで僕の宿探しが始まってしまったことがある🤠なぜか、終点で降りるはずの客たちも付き合ってくれて…宿が見つかったときには大盛り上がりさ😆
河原町のジュリーの訃報は深夜ラジオ「ハイヤング京都」で知りました。つボイノリオ氏の曜日だったか。2月の寒い日だった気がします。ホームレスというカテゴリではなく「河原町のジュリー」という人格があの頃にはありましたね。
京都にもいた福神「河原町のジュリー」。四条河原町に毎日のように現れたホームレス男性。不思議なことに「ジュリーが店先で寝転がると、その店には福が来る」「夕日に向かって人類の平和や人々の幸せを祈っていた」という神格化が生まれた。1984年、円山公園で凍死。ジュリーが立っていた場所には花や酒が供えられ、有志に追悼されたという。生涯をモデルにした小説『ジュリーの世界』(増山実著)が刊行されている
写真は下記URLからthreads.com/share/GlJHnU_Ww/
「通りすがりに罵倒してくる無礼者」にへんな好奇心があって、ポストを見たところすでにミュート済みだったので、以前、私にも無礼な接し方をしてきた人物なんでしょうね😵💫どういう精神構造なんでしょうぬ…
通りすがりに罵倒してくる無礼者っぷりには笑ってしまうしかないわけだが。たしかにそもそも神道を仏教と別の宗教として立てるのは近代以降の発想。だから「日本は伝統的に八百万の神を大切にしてきた」という語り口は近代の語りで、近代以前の日本人の宗教的世界観全体を一語で言えば、神を本地垂迹で包摂した仏教でしょう。近代以前の日本社会の基軸はその意味で、仏教にありました。ただ、神と仏の区別そのものはあった。本地垂迹説は仏を本地、神を垂迹と呼び分けて序列をつける理論で、区別の上にしか成り立たない。伊勢では仏・経・僧を忌詞で言い換え、真宗門徒は神祇不拝を守った。区別がなかったなら、明治政府は何を分離したんでしょうね。
一度きりのジャッジメントデイvs反復する閻魔さん、みたいなギャップが宣教師と日本人とのあいだでもあったんですかね🤠。もっとも大きなギャップは供養というヘルプシステムだったりするんですかね。
19世紀にタイにやってきたプロテスタント宣教師たちは、タイの王や貴族をキリスト教徒にすれば、国全体の改宗が進むと考えていた。そして、西欧の印刷技術を持ち込んで、宗教パンフレットを作り、それに流行病の薬を添えて、民衆にも配ると言ういわゆる「医療伝道」を行った。
拙い翻訳で「良いことをすれば、天国に行き、悪いことをすれば地獄に落ちる」と盛んに説教したが、その言葉は、もちろんタイの仏教にもある。人々は「それはタイの仏教と同じである。改宗する必要は感じない」と言った。(ブラッドレイの記録にある)
タイ語の「天国 สวรรค์(サワン)、「地獄」はนรก(ナロック)と言いう。「天国」と「地獄」という言葉は、そもそもインド的な輪廻の世界の中の天の世界と地獄を、その語義に含んでいて、一旦世界が完全に破滅をした後も、(仏教も破滅する)天国も地獄も一時滞在場所なので、共に崩壊してしまいます。
そして、再び時間をかけて、世界が完全な0から次第に復活し、命は世界のどこかにまた生まれ変わる、と言う意味での天国と地獄なので、キリスト教的な、あるいはイスラムのような、「生きてるウチが花、死んだら、そのまま土の中で最終的な神の裁きを受けなければならず、地獄判定されると永遠に絶望のままにおかれる」という、一度きりのチャンスを掴まねばならない、と言う「必死感」はない。
簡単な言葉で、民衆を説得しようとしても、こういう翻訳や通訳の言葉の微妙なニュアンスの違いで、意味が伝わらないことだってある。
生老病死による苦しみからの解放が仏教のテーマです。本来であれば修行をして仏(執着を捨てて生老病死から解放状態)になれればいいのですが、そこに至るには時間がかかります。個人差もあります。なので「将来必ず仏になれる(っぽい)」ということにして、直近の苦しみは一時的なことと思うことにする。その方便の中に願掛けなどがある、という感じです。
(あと、根本的な誤解として、執着を捨てるのは目的ではありません。手段です。目的は生老病死による苦からの解放です)
これだ。Play with bootsy に入ってるの。
music.apple.com/jp/album/fun…


























