小柳弐魄(ニハク) retweeted
昨晩ぼんちゃんとの読書会を、空海読んだら人生変わったをテーマに
一週間でこちら消えます💁
現場での課題も、空海の目線を借りたらすんなりと動くのかもしれません。
stand.fm/episodes/6aec72db7f…
やっぱ300ちょっとの❤️が限界なのかな。もっと頑張っていい評を書いてこと思う。
映画『時には懺悔を』観てきた!
何よりクドカンがやばい。みすぼらしさを引き受ける凄みが圧倒していた。
本作において最も強烈な批評的毒を放っているのは、間違いなく俳優・宮藤官九郎の存在そのものである。
宮藤官九郎といえば、日本のエンターテインメント界における頂点の一人である。脚本家として、演出家として、数々の大ヒット作を生み出し、名声も地位も財も手に入れた「大成功者」だ。通常、それほどの地位と成功を得た人物が画面に立つとき、どれほど市井の人間を演じようとも、どこかに「余裕」や「知性の透け感」、あるいは演じることへの「安全圏からの高みの見物」のような匂いが残ってしまうものだろう。
しかし、『時には懺悔を』における宮藤官九郎の佇まいはどうだ。
あの「みすぼらしさ」は、到底生半可なものではない。髪の毛の乾いたパサつき、汚い爪、疲弊しきった皮膚のたるみ、そして何よりも「明日の希望など端から諦めている男」の猫背と視線の泳ぎ。あれは、単なるメイクや衣装の力で作れるものではない。彼自身の肉体が、社会の最底辺で擦り減っていく男の「生(き)の悲哀」をそのまま体現しているのだ。
大成功を収めた表現者が、なぜこれほどまでに己の肉体を「持たざる者」として差し出すことができるのか。
彼の劇作家としての偉大さは誰もが知るところだが、俳優・宮藤官九郎の凄みは「人間の小ささ、格好悪さ、みすぼらしさ」に対する批評眼の鋭さと、それを自らの身体を使って惜しげもなく差し出せる覚悟にある。彼演じる明野の背中には、日本社会の隙間にこぼれ落ちたケア労働の過酷さと、そこから抜け出せない人間の「生身の重さ」がそのまま粘りついている。
誰か、いまこそ彼の「俳優としての伝記」をものすべきではないか。
大ヒット作を連発する天才劇作家の華々しいキャリアの裏で、彼がどのような眼差しで「市井の小さき人々」を見つめ、いかにして自らの肉体にその不器用な生き様を宿らせてきたのか。宮藤官九郎という表現者が持つ「みすぼらしさへの圧倒的な誠実さ」は、日本の映画史・演劇史においてもっと正当に評価され、記録されるべき巨歩である。
彼の演じる明野が画面に存在するだけで、この映画が提示する「介護のリアリティ」は、抽象的なドキュメンタリーを超えた「痛切な肉体論」へと昇華されていた。 #時には懺悔を #クドカン #宮藤官九郎
300の❤️を超えた🥰
震えが止まらないほど凄かった。
前作で強く引っかかっていた「犠牲を美談へと仕立て上げてしまう姿勢」。あの居心地の悪さと、どうしても拭えなかった倫理的な違和感。今作『ゴジラ-0.0』は、その課題を真正面から受け止め、鮮やかに乗り越えていた。
作品の根底において、国家や権力の横暴に対して「個」がいかにして自らの生を握り直し、合理的な抗いを選択するかという姿勢が、きわめて意図的かつ細やかに描かれており、その意志の強さにまず深く心を揺さぶられた。
とりわけ物語の核心を支えていたのが、田中泯という圧倒的な身体の存在感だ。
彼が演じる博士は、ヒロシマで愛する家族を奪われ、原爆を投下した国に対する苛烈な復讐心を内心抱え続けている。その情念の原動力を単なる「悪」、たんなる「醜」として切って捨てることはできない。そこには歴史の渦に巻き込まれた人間としての必然性と、あまりに痛烈な正直さがあるからだ。
しかし、その正当な怒りはあまりに深く、彼自身を逃れようのない狂気の渦へと引きずり込んでいく。その「狂わざるを得なかった者のやるせなさ」を、田中泯という稀代の表現者は圧倒的な実在感をもって体現していた。
並の俳優が演じれば、単なる記号的な「イカれた科学者」という浅はかなカリカチュアに陥りかねない役柄である。しかし、彼は普段はしれっと「正気の人間」の皮を被りながら、その眼光や肉体の佇まいの奥底に、決して消えない本物の狂気を密かに湛えている。
ここには間違いなく、彼が長年追求してきた暗黒舞踏的な身体性、すなわち「普段の日常的な身体からいかに逸脱し、異質の存在を宿すか」という鍛錬の結実が、スクリーンへと地続きに流れ込んでいた。
舞踏家が劇映画に出演する際、ともすれば「取ってつけたような舞踏表現」として浮いてしまう危うさがあるが、映画としての芝居をも完全に血肉化している田中泯だからこそ、その境目を驚くほどシームレスに繋いでみせたのだ。「あ、いま文字通り“世界の田中泯”がスクリーン上に立ち現れた!」と戦慄混じりに納得させられるほどの圧倒的な説得力。これまでの居心地の悪さが一気に拭い去られ、胸のすく思い(まさに溜飲が下がる感覚)を味わった。
作品全体を通しても、重厚な人間ドラマと怪獣映画としての圧倒的なアクションの均衡が絶妙に保たれていた。
安易なヒューマニズムに逃げず、苛烈な残酷描写のコントラストをきっちりと対置させることで、戦後を生きる庶民の歯に衣着せぬ本音や生活感が浮き彫りになっていく。
そして何より、暴力や理不尽によって生み出された過剰な「復讐心」が、怒りの連鎖に呑み込まれることなく、どのような回路を通って昇華されていくのか。
その回答の差し出し方に至るまで、極めて誠実で力強い映画体験だった。
震えが止まらん。
#ゴジラマイナスゼロ #ゴジラ #田中泯
近所に住んでいらっしゃると噂のラランド西田さん、鍼やってるらしい。あとで見る_φ(・_・
ニシダを右だけ痩せさせる youtu.be/8rLfiAme-Js?si=iQOQ… @YouTubeより
震えが止まらないほど凄かった。
前作で強く引っかかっていた「犠牲を美談へと仕立て上げてしまう姿勢」。あの居心地の悪さと、どうしても拭えなかった倫理的な違和感。今作『ゴジラ-0.0』は、その課題を真正面から受け止め、鮮やかに乗り越えていた。
作品の根底において、国家や権力の横暴に対して「個」がいかにして自らの生を握り直し、合理的な抗いを選択するかという姿勢が、きわめて意図的かつ細やかに描かれており、その意志の強さにまず深く心を揺さぶられた。
とりわけ物語の核心を支えていたのが、田中泯という圧倒的な身体の存在感だ。
彼が演じる博士は、ヒロシマで愛する家族を奪われ、原爆を投下した国に対する苛烈な復讐心を内心抱え続けている。その情念の原動力を単なる「悪」、たんなる「醜」として切って捨てることはできない。そこには歴史の渦に巻き込まれた人間としての必然性と、あまりに痛烈な正直さがあるからだ。
しかし、その正当な怒りはあまりに深く、彼自身を逃れようのない狂気の渦へと引きずり込んでいく。その「狂わざるを得なかった者のやるせなさ」を、田中泯という稀代の表現者は圧倒的な実在感をもって体現していた。
並の俳優が演じれば、単なる記号的な「イカれた科学者」という浅はかなカリカチュアに陥りかねない役柄である。しかし、彼は普段はしれっと「正気の人間」の皮を被りながら、その眼光や肉体の佇まいの奥底に、決して消えない本物の狂気を密かに湛えている。
ここには間違いなく、彼が長年追求してきた暗黒舞踏的な身体性、すなわち「普段の日常的な身体からいかに逸脱し、異質の存在を宿すか」という鍛錬の結実が、スクリーンへと地続きに流れ込んでいた。
舞踏家が劇映画に出演する際、ともすれば「取ってつけたような舞踏表現」として浮いてしまう危うさがあるが、映画としての芝居をも完全に血肉化している田中泯だからこそ、その境目を驚くほどシームレスに繋いでみせたのだ。「あ、いま文字通り“世界の田中泯”がスクリーン上に立ち現れた!」と戦慄混じりに納得させられるほどの圧倒的な説得力。これまでの居心地の悪さが一気に拭い去られ、胸のすく思い(まさに溜飲が下がる感覚)を味わった。
作品全体を通しても、重厚な人間ドラマと怪獣映画としての圧倒的なアクションの均衡が絶妙に保たれていた。
安易なヒューマニズムに逃げず、苛烈な残酷描写のコントラストをきっちりと対置させることで、戦後を生きる庶民の歯に衣着せぬ本音や生活感が浮き彫りになっていく。
そして何より、暴力や理不尽によって生み出された過剰な「復讐心」が、怒りの連鎖に呑み込まれることなく、どのような回路を通って昇華されていくのか。
その回答の差し出し方に至るまで、極めて誠実で力強い映画体験だった。
震えが止まらん。
#ゴジラマイナスゼロ #ゴジラ #田中泯
東北旅行の話とかもっとやりたかった💁
【編集後記06】ぱち“結合織マッサージ”〜かっきー“資産1億円”〜すぎちゃん“治療院とAIの未来”〜すぎちゃん“独立開業のタイミング”〜加藤伯爵... youtu.be/BW-VfUsXvwc?si=MkIS…
浅田さんが誇らしげに言及していたブックレットがこちら💁
《待合室》
ルイヴィトンと草間彌生さんのコラボを記念して銀座のドーバーストリートマーケットでのみ販売された、とっても貴重な本です!!
s.ameblo.jp/irabayasi/entry-…
草間彌生さんと浅田彰さんとの対談も載っています。
専門学校と医学部が異色のタッグ!メンタルヘルス研究を本格始動。 prtimes.jp/main/html/rd/p/00… @PRTIMES_JPより























