ネオ高等遊民🛺日本初の哲学youtuber retweeted
俺は学部生のときはメルヴィルとかフォークナーが読めるようになりたい、という一心だったよ。ほんとにそれだけだった。英文科の教授にさえ英語屋になるなって言われたけど、そういう英語よりまず専門が大事っていう人たちってだいたい英語舐めてるのよ。自分たちができなかったからそう言ってるわけ。英文科の教授すらだいたい英語読めないの。だから無視していい。とにかく突き抜けるのが大事なの。
哲学って本当にどうやってもいいんですよね。
これはダメ! みたいなNGがないんですよ。ほかのものにはなんでもあるけど、マジで哲学はないんですね。まあ究極的には何についても何をしてもいいっていう次元があるとは思いますが。
100分de名著シリーズの200円セール、先月末に紹介したんですが、まだやっていたんですね!
もしかしたら今日まで?
みなさまぜひ再確認を。
驚くべきことに、100分de名著シリーズのkindle書籍が軒並み200円というとんでもないセールをやっているようです。定価はだいたい1000円以上しますから、80%を超える割引。
リストだけでもチェックしてみてはいかがでしょうか↓
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入不二先生にも予告していただきましたが、ネオ高等遊民YouTube、久しぶりの更新は、『何でもいい何かって何?』青土社をテーマにした鼎談動画です!! あした公開予定。
ネオ・アカデメイアの創立記念動画も併せてご覧ください!
youtu.be/AaABTP9n_1g?si=ASOZ…
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『パラジット』は大昔に最初読んだ時、図が要所要所に出てくるので構造的なことを聖書や神話、プラトンやルソーまで豊富な類例で論証するのかと思ったが全然違っていた思い出がある。寄食性という↑の一方向性がむしろ交換可能で、もっと動的なものであることを類例の方が変えていくのである。
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本日はこの四冊を堪能します。『寄食者の哲学』は待望の書だったので一気に読んで二巡目。パラジットの不穏な終わり方が私には長年の謎だったのだけれど清水高志さんのこれこそがプラトン的なるものと言われて視界が晴れた気がした。それから日本の明治大正期の食客文化に思いを馳せた。実に素晴らしい
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「ネオ・アカデメイア」のイベント【追加】情報
入不二基義(特別講師・相談役)がホストになってゲストを招いて、(対談よりは柔らかめの)トークをする番組を予定しています。
その第一回目を、
哲学者・野矢茂樹さんをゲストに招いて、2027年4月か5月に予定しています。
乞うご期待。
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哲学専攻の大学院にいってみて思ったのは、おそろしく頭がよかったり、博識だったり、語学ができたりする人というのは居るが、哲学の才能がずば抜けている人というのは特に居ないということ。その事柄についてよく考え抜かれているかどうか、ということだけが重要なのだろう。
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このような「事実」の持つ、哲学的なインパクトをこれでもかというくらいに掘り下げた哲学は永井哲学以外にはないと思うし、この重要性は遅かれ早かれ、全世界で共有されることになるだろうと思う。
Replying to @masumexico
永井さんの議論で特に重要なのは、記憶というものが必ず「自分の記憶」として現れるという指摘だ。
例えば翔太の頭の中に、由美が修学旅行で見た風景や、友人との会話の記憶が突然現れたとしよう。
その記憶の内容から、「これは由美の体験した出来事だ」と推論することはできる。
しかし、その記憶を思い出しているのは、あくまでも翔太自身である。
翔太には、その出来事をかつて由美が「自分自身の体験」として生きたという、主体の同一性そのものを思い出すことはできない。
なぜなら、その同一性は記憶の中の一つの情報ではなく、そもそも記憶を自分の記憶として成立させている基盤だからだ。
永井さんは、もし翔太がその主体の同一性まで含めて由美の体験を思い出せるなら、その瞬間、少なくとも心に関する限り、翔太は一挙に由美そのものになってしまう、と述べる。
つまり、記憶の内容を少しずつ交換することと、記憶を経験する主体そのものが少しずつ他人になることは、まったく違う。
主体そのものには、30%だけ由美であるとか、70%だけ翔太であるといった中間状態は成立しない。
ここで僕は、村上春樹の『夏帆』に戻って考えた。
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で、今晩はシラス?かネオさんところのチャンネルでの、飲茶先生とネオ高等遊民さんとの月イチ鼎談です。
・年末調整だよマスオさん
・土日の休みは星雲の彼方へ
・『史上最強の西洋哲学史』って出していい?
・サビちゃんをお風呂に入れたよ
の4本でお送りします。
嘘です。
(鼎談やるのはホント)
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永井均さんの『存在と時間 哲学探究Ⅰ』には、翔太という男子中学生と由美という女子中学生が、約3か月かけて徐々に心身を交換していくという思考実験が登場する。
ここで心の中核をなすのは記憶である。
例えば翔太は、ある日、自分の修学旅行の思い出が、由美の視点から見たものに変わっていることに気づく。
そのように記憶が一つずつ入れ替わっていく。
すると、こんな疑問が生じる。
翔太は最初、「僕の記憶の一部が由美の記憶になってしまった」と考えるだろう。
しかし交換が進めば、いつか「私は由美なのに、まだ翔太の記憶が一部残っている」と考えるようになるのだろうか。
その転換点はどこにあるのか。
ところが永井さんの答えは、驚くべきものだった。
そもそも記憶を一つずつ交換して、徐々に別人になっていくという想定自体が不可能だというのだ。
しかもそれは、現実には起こりえないという意味ではない。
「そもそも考えてみることさえできない」という、もっと根本的な意味での不可能なのである。
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今日は『寄食者の哲学』発売日だな。独創的な哲学者は日本にも何人かおられるが、古今の叡智を踏まえながらなおかつ独創的という書物で、ものを考える素材をふんだんに散りばめたものになっていると思いますよ。
ジュリエット「おおロミオ、あなたはどうしてロミオなの?」
ロミオ「もっと聞こうか、それともいま話しかけようか?」
ジュリエット「たとえあなたがモンタギュー家でなくても、あなたはあなた」
ロミオ「御意。私が私なのは反実仮想における属性記述の任意性を通じて固有性が維持されるからです」
最後の「哲学の基本を学ぶこと」と「自ら考え、他者と共に吟味すること」。この両者を対立させるのではなく、むしろ互いに支え合うものとして位置づけ」
ここが私個人としても重要と考えます。つねに「基本」や「そもそも」に立ち返ることが哲学的に考えることだと思います。
YouTube動画で、頂いた「哲学を教える/学ぶ」ことについてのご質問について以下のようにお返事させて頂きました! 貴重なご質問をありがとうございます!
「コメントありがとうございます。この動画だけでは十分にお伝えしきれなかった点についてご指摘いただき、大変ありがたく思っております。
誰もが、どんなことについても、どのような観点からでも問うことができる。だからこそ、哲学という営みが存在しているのだと考えております。そして、「問いを問う」という見地に立てば、そこには教師も生徒もなく、誰もが共に問いに問われる立場にあるということが、いわば前提となっております。
しかし、問いに向き合う立場が対等であるということは、そこで交わされるすべての意見が等しく妥当であるということではありません。また、哲学についての知識や、問いを吟味するための方法について、誰もが同じ理解を持っているということでもありません。
むしろ、誰もが自由に問うことができるからこそ、それぞれの問いや意見を、根拠や論理に照らして吟味することが重要になると考えております。
そのためには、例えば「文章を論理的に読むこと」や「なぜ論理が理解や解釈の手がかりとなるのか」といった基本的な事柄について学ぶことにも、大きな意味があります。さらに、問いそのものを問い直すという哲学固有の思考のあり方についても、その基本的な捉え方や手がかりを示すことは、ある程度「教える」ことができるのではないか、というのが私たちの提案です。
つまり、哲学において教師と生徒は、問いに向き合う者としては対等でありながら、その問いを深めるための知識や方法については、教え、学ぶ関係が成立しうると考えております。そして、教える側もまた、問いに向き合う限り、自らの理解や前提を問い直される可能性に開かれている必要があるでしょう。
ネオ・アカデメイアでは、こうした基礎を扱う研究会や勉強会に加え、自由な討論や交流の場、さらには講師の先生方が主宰する研究会なども設けております。
「哲学の基本を学ぶこと」と「自ら考え、他者と共に吟味すること」。この両者を対立させるのではなく、むしろ互いに支え合うものとして位置づけ、共に哲学を深めていくことのできる学園を目指しております。」
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YouTube動画で、頂いた「哲学を教える/学ぶ」ことについてのご質問について以下のようにお返事させて頂きました! 貴重なご質問をありがとうございます!
「コメントありがとうございます。この動画だけでは十分にお伝えしきれなかった点についてご指摘いただき、大変ありがたく思っております。
誰もが、どんなことについても、どのような観点からでも問うことができる。だからこそ、哲学という営みが存在しているのだと考えております。そして、「問いを問う」という見地に立てば、そこには教師も生徒もなく、誰もが共に問いに問われる立場にあるということが、いわば前提となっております。
しかし、問いに向き合う立場が対等であるということは、そこで交わされるすべての意見が等しく妥当であるということではありません。また、哲学についての知識や、問いを吟味するための方法について、誰もが同じ理解を持っているということでもありません。
むしろ、誰もが自由に問うことができるからこそ、それぞれの問いや意見を、根拠や論理に照らして吟味することが重要になると考えております。
そのためには、例えば「文章を論理的に読むこと」や「なぜ論理が理解や解釈の手がかりとなるのか」といった基本的な事柄について学ぶことにも、大きな意味があります。さらに、問いそのものを問い直すという哲学固有の思考のあり方についても、その基本的な捉え方や手がかりを示すことは、ある程度「教える」ことができるのではないか、というのが私たちの提案です。
つまり、哲学において教師と生徒は、問いに向き合う者としては対等でありながら、その問いを深めるための知識や方法については、教え、学ぶ関係が成立しうると考えております。そして、教える側もまた、問いに向き合う限り、自らの理解や前提を問い直される可能性に開かれている必要があるでしょう。
ネオ・アカデメイアでは、こうした基礎を扱う研究会や勉強会に加え、自由な討論や交流の場、さらには講師の先生方が主宰する研究会なども設けております。
「哲学の基本を学ぶこと」と「自ら考え、他者と共に吟味すること」。この両者を対立させるのではなく、むしろ互いに支え合うものとして位置づけ、共に哲学を深めていくことのできる学園を目指しております。」
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は古典を含めて実のところはあまり存在しないと思っているので。みな問いの立て方自体が本質的に的を外しており、倫理・道徳という現象にかんしてちっとも哲学をしていないので。拙著がとりわけ優れているとは思わないが、辛うじて及第点ではある唯一の本ではないかと疑ってはいる。




















