
なかい みそひと / Misohito Nakai HyDia音楽 ・ Xenharmonic音楽・31EDO guitar 「VRC微分音集会」主催 @XENMVR
4mmのフレットの間
Joined July 2016
- Tweets7.5K
- Following313
- Followers1.5K
- Likes13.3K
中井三十一 retweeted
ウクレレによる微分音の実践方法についてクレイジーな記事を書いたので読んでくれ
note.com/chalk9668/n/nd74298…
”あの頃”のChatGPTが懐かしい人向けに「はなげ」をYouTubeで公開しました。
youtube.com/watch?v=kzpj0ZEl…
というか、旧来の典拠に拘泥する人を見た。
Replying to @Regret_March
私の反論に対する反論のご指摘も見受けられますが、当然ながら、過去に幾ら美しく史実の音楽理論が体系付けようとも、現世の我々の知覚を完全に裏付けたものであると言い切ることにも、論理的飛躍の注意が必要な事項です。
もちろんこうした私の反論や、その前提スタンスにも関連分野の典拠があります。
人間が歴史の中で生み出したルールや文化(史実)が、あまりにも合理的で美しく構造化されているとき、そこに「自然科学的な真理」を幻視してしまいます。
音楽理論におけるこの錯誤は、考古学において「過去の人間の恣意的な行動や文化的選択」を、何か「生物学的・地質学的な必然の法則」として語ってしまう危険性と地続きです。こうした考古がそのまま科学になるという前提が、まさしく論理的飛躍で、「自然主義的誤謬」そのものです。
こうした考古は文化的背景を一段階伴っているから、全くこれが科学になり得ないと主張する訳ではないことは誤解なきよう。
悪いが、前提にある構造化の恣意性を見落としていて、自然主義的な誤謬が多いように見える。がんばりましょう。
teapawt.org/Regret_March/status/20…
「なぜ、メジャースケールはこういう形なのか?」
「長調性と短調性の探求①」を公開しました。
音楽理論の根幹にあるメジャースケールを、倍音・音響学・数学の側から捉え直した記事です。
GitHubリンク:
uriop-dogg.github.io/m2_musi…
#音楽理論 #音響学
私の提示する三層構造で音楽を診る記事から考えると、
A 「数学至上主義」
B 「自然主義的誤謬」
どちらも含まれているように見えます。
●数学的定義→情感への癒着:構造的事実から価値判断への無自覚な飛躍
内容の核心的主張は「H-MajorはJI-Majorより優れている」と読めます。その根拠として提示される「結合音閉性」というものは、数学的定義のレイヤーで完結する純粋な数学的定理です。(06節で証明されています。)ある基準音を選べば、その奇数ハーモニクス系列上の和音の結合音は同じ系列に閉じる、という条件付きの構造的事実にすぎません。
ところが、この定理から「ハーモニクスを重視するべき」「H-Majorは構造的な理由から支持される」という規範的・評価的結論へと、途中の推論を経ずに直結させています。勿論この説明は、05節で説明される「結合音」の「閉性」だけでは足りません。
【閉性という性質が成り立つならば⇒聴覚的に「良い」or「主音として自然」】であることの間には、本来もう一段(なぜ結合音が根音系列に戻ることが望ましい?)(なぜそれが「調性感の骨格」として特権化されるのか?)という規範的前提が必要なはずですが、この前提は暗黙のまま数学的証明の権威に乗せられ、自然主義的誤謬の典型的パターンに陥っている部分と読みました。
この点から「私はドレミの起源をこれだとは思っていない」という臆断が生じてしまったと読めます。
●「基準音の恣意性」の自己言及と、その回避
惜しいと思った点として、08節で「音名Xの取り方の自由性」として、基準周波数h_refの選択が自由であることに触れています。これは構造化の恣意性に気づき得る決定的な分岐点でしたが、この自己言及の直後、その恣意性を追究せずに、「実際に主音と見なしたい位置・C」「聴覚的に主音と見なしたい音とハーモニクス的根音が一致していない」という自身の感覚こそが正しく、JI-Majorの基準がFにずれることが「不便」だと述べる方向に検証を誤って、感想を信じて議論を戻してしまっています。(なおこの検証が揺らぐ理由が先の誤謬で、結合音の閉性に求めてしまっているためです。)
「なぜCを主音にしたいのか」という、まさに文化的・慣習的(西洋機能和声のトニック志向)に形成された欲求そのものは検証対象にせず、その欲求に結合音の数学的裏付けを与えることだけを目的化しているように見えます。
※同様の誤謬に陥った有名例として、Lipps–Meyer Lawがあります。
en.wikipedia.org/wiki/Lipps%…しかし、Tillmann, B., Bharucha, J. J., & Bigand, E. (2000)を筆頭に神経学的な検証に敗れています。
●番号の間引きにおける同型の操作
H-Majorの奇数(1,3,5,9,21,27,15)を選ぶ際、「12平均律に近づけるために番号を飛ばしたわけではない、もっと構造的な理由がある」と明示的に弁明していますが、その「構造的理由」の中身は「Gがトニック-ドミナント関係を強調するから」というものです。しかし「トニック/ドミナントの強調」こそが「良い長調性」の基準である、という前提自体が西洋機能和声由来の文化的カテゴリーであり、数学が強制するものではありません。ここは『機能和声のパターン』の内容を『数学的閉性』にすり替えている「数学至上主義」的還元と読めます。
●主観的感想の証拠化
電子ピアノで純正律を弾いたときに「気持ち悪い響きがする」と感じた個人の主観的経験を、H-Major優位説の傍証として提示している箇所があります。
文化学的・個人的記憶に基づく感想のレベルの言明を、数学的主張の補強材料に流用しており、「特定文化圏の感情論を音そのものの普遍的属性と混同する」パターンに、皮肉にも数学的装いのもとで陥っています。
結果として、Bの数学至上主義(結合音閉性の証明という①のみで機能・慣習的意味づけまで説明できたと錯覚する還元主義)と、Aの自然主義的誤謬(西洋機能和声で培われたトニック志向・主音への欲求という文化的に構成された価値を、ハーモニクスという物理的属性の必然的帰結であるかのように語る)を、同時に、しかも相互に隠蔽しあう形で犯してしまっているのではないか、と読めました。がんばれ。
私の反論に対する反論のご指摘も見受けられますが、当然ながら、過去に幾ら美しく史実の音楽理論が体系付けようとも、現世の我々の知覚を完全に裏付けたものであると言い切ることにも、論理的飛躍の注意が必要な事項です。
もちろんこうした私の反論や、その前提スタンスにも関連分野の典拠があります。
人間が歴史の中で生み出したルールや文化(史実)が、あまりにも合理的で美しく構造化されているとき、そこに「自然科学的な真理」を幻視してしまいます。
音楽理論におけるこの錯誤は、考古学において「過去の人間の恣意的な行動や文化的選択」を、何か「生物学的・地質学的な必然の法則」として語ってしまう危険性と地続きです。こうした考古がそのまま科学になるという前提が、まさしく論理的飛躍で、「自然主義的誤謬」そのものです。
こうした考古は文化的背景を一段階伴っているから、全くこれが科学になり得ないと主張する訳ではないことは誤解なきよう。














