そんなには学べないなぁと思いますが、少しでも学んでみると色々と得られることは多いものだと思います。舛添要一がキリル文字を読めるだけでも随分 いいものだみたいな話をしていましたね。
これらの外国語のうち、いわゆる外国語 というのと、日本語の中の歴史に深く絡んでいる外国語はちょっと違う気がします。簡単に言うとラテン語と中国語ですね。
昭和のでたまに思い出すんですけれど、「正義なんていうものは腹の足しにもならない」っていうのがあります。
こ主題は「正義」とは限らず いろんなものが入ります。需要なのは「腹の足しにもならない」という判断です。
昭和の後期、戦争の後、人々は飢えていたんですね。
私は昭和32年生まれで、もはや時代的な飢えというものを知らない世代です。
それでもこの言葉が発せられる感覚をよく覚えています。
うまく言えないというか、言うと誤解されるような気がするんですが、とりあえず言ってみます。
コロナが流行っていた頃、私はあれをただの社会的ヒステリーと見ていました。一種の社会的な狂気です。
そこで私に問われていたのは、「私は正気なのか」ということでした。
あの一連のバカ騒ぎが過ぎ去った今、振り返ってみても、自分は正気だったのだろうかと、よくわからないんですよね。
そして今、もう一つ、ウクライナ戦争というものがあります。これも私から見ると、世界が狂気に陥っているように見えます。
一番怖いなと思うのは、私が信頼していたメジャーなメディアが、気が狂っているように感じられることです。
率直に言って、この件についても、自分は正気なんだろうかという不安があります。
ただ、そこで思うのは、こうした不安を抱いているということは、ある程度までは正気なんだろうということです。同時に、本当に世界の方が狂っているんじゃないかな、という感覚もあります。
まあ、この件について私がよくつぶやいているのは、こうした不安があるからなんですね。
もう一つ言うと、確信を持って明るく語る人を私は基本的に信用しませんね。
これはとても、私のような人間には、共感させられます、というか似たことをずっと考えていたように思います。ただ、こうした問題は、共感や似てることに、実は大きな違和があるものでもあるのでしょうが。
で、私が思ったのは、というのは建物でも場でもなくて、キリストの体で一部であるという風に思います。これはちょっと 厄介な話があるんですけれど。
そして、私が思うのは 教会というものはイエスの復活と同じように 与えられるものなのではないか っていう気がします。
私は X でなんだかよくわからないことをぶつぶつ呟いているのですけど、そこでの呟きの相手、あるいは 私が聞き取る相手の中あるいは関係に何か小さく私の「教会」があるような気がしています。
キリスト教の「救い」というのが、僕にはほとんどまったく理解できない。子供の頃から教会と接点があり、最近は毎週教会に通っているけど、それが露ほどもわからない。
教理的なことはわかります。使徒信条にあるように、「罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命」というのが、聖書が述べている「救い」の中心でしょう。
しかしこれが、21世紀の今現在の日本で暮らしている自分自身にとって、どう結びつくのかがよくわからない。まったくぴんと来ない。
多くの人にとって「罪の赦し」の問題よりも、老後を安心して過ごせるとか、家族の不和が解消するとか、仕事が見つかるとか、病気が治るとか、そういうことの方がよほど大事なんじゃないですかね?
経済的に困窮している人にとっては、「イエスさまはあなたの罪のために死んでくださいました。あなたの罪は赦されているのです!」と言われるより、目の前にポンと100万円投げ出して「これで当座はなんとかしろ。足りなければまた用立てるから相談しろ」と行ってくれる人の方がよほど神さまですよ。
ChatGPTに「救いってなんですかね?」とたずねてみたら、「教理としての救いと、信徒が実感している救いには違いがあるんじゃないスかね」みたいな返答があった。
キリスト教の魅力は教理だけにあるのではなく、やはり「共同体の宗教」としての魅力が半分を占めている。人間関係の魅力です。教会に行って「自分はこの共同体の一員である」と実感できることに、キリスト教の、あるいはそれに限らず、宗教という営みの魅力があるのかもしれません。
教会で嫌なことがあった、嫌な人に出会った、意地悪された、不快な目にあったという話はよく聞くことで、そのことで教会を離れる人も少なからずいる。
そうした人に「人につまずいても神さまにつまずかないで」とアドバイスする人も多いし、それはそれで正しいと思うけど、キリスト教の魅力の半分が「共同体」の魅力であるとするなら、それが損なわれた時点でキリスト教の魅力も半減だよなぁ……。
これは「救い」の問題からちょっと離れるかもしれませんが、僕は教理的な「救い」にはほとんど魅力を感じず、共同体としての教会に属する気もないまま、今後もあちこちの教会を訪問し続けようと思います。
えっとですね、野暮な反論をするつもりはないんですが、ちょっと違和感がありましてですね。
この設問に違和感を感じるのは、スピノザの用語を用いながら、その思想を自然神学的な認識の枠組みで説明していることです。
自然の諸事物に必然的な法則を発見し、そこから神と自然の同一性を認識するという記述は、自然の秩序から神についての認識へと至る自然神学的な推論を思わせます。
しかし、スピノザにおいて神即自然は、自然法則の発見から導かれる結論ではなく、あらゆる事物が神の本性から必然的に生じるという存在論の根本命題です。
また、「永遠の相のもとに」認識するとは、神と自然の同一性を発見することではなく、個々の事物を神の永遠の本性に根拠づけられた必然的なものとして理解することです。
というわけで、この設問は、スピノザの認識論と存在論の関係を逆転させかねないのではないかなと。
I like to study English.
I like studying English.
どちらも「英語を勉強するのが好きです」という意味で、自然な英語です。
ところが、「テレビを見るのが好きです」と言う場合には、「I like watching TV.」のほうが自然に感じられ、「I like to watch TV.」は少し違った響きを持つことがあります。もちろん、「I like to watch TV.」も日常会話で普通に使われる自然な表現です。「I like to watch TV before bed.」とか。
違いの感覚が生じる一つの理由は、動名詞(〜ing)と不定詞(to 〜)の意味合いてしょう。
動名詞は活動そのものを楽しむ感覚に、不定詞はその行為をすることへの好みや習慣を表す感覚になじみやすい傾向があります。
テレビを見ることは娯楽として捉えられやすいため、「watching TV」がしっくりきますが、勉強は楽しむ活動であると同時に、自分の意思で取り組む行為でもあるため、「studying English」と「to study English」のどちらも自然に感じられます。
これは 文法の問題ではありません。study と watch に文法上の違いがあるのではなく、活動の性質や、それをどのような視点で捉えるかによって、表現の選び方に違いが生まれるのでしょう。
言語学においては「主語」というのはかなり厄介なテーマです。
印欧語は動詞が人称変化するので、近代英語のような主語っていうのは必要としないんですね。
極論すれば英語の場合、人称代名詞 というのは、動詞人称変化の文法機能的な代替なんですね。
反論とかいう意図ではないですが、思ったのは、太宰治『右大臣実朝』のこの言葉です。
「明るさは滅びの姿であろうか。人も家も、暗いうちはまだ滅亡せぬ」
これは私の実感でもありますね。
もっと言うと、奇妙な明るさとでも言うべきものでしょうね。
本当の明るさというものは、暗さの後に来るんじゃないかと思います。















