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Joined April 2015
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これに関しては精神科医の松本俊彦先生がよく論じていることだけど、生育環境の中でよく人から褒められたり、成功体験を積み重ねたりして、日常生活の中で健全に報酬を得る経験を積み重ねてきた人は、そうでない人に比べてケミカルな物質による快感に圧倒され、依存に陥るリスクが低いそうで、同じ逸脱行為をしていても、純粋に体験の面白さや好奇心から興味の範囲で逸脱する人と、忘れたい苦痛や埋め合わせたい欠乏があって逸脱する人とでは溺れ方が全く違う。
村上龍があれだけ派手な世界に身を置きながら破滅せず、膨大な仕事を継続できたのは、刺激を求めていても現実から逃避していたわけではなかったことと、強烈な体験をしたあとに、それを観察し、言語化し、作品へと変換する能力があったからだと思う。本人も語っているように、刺激を消費するだけで終わらず、創作そのものからも報酬を得られていたので、どれほど強烈な体験をしても、そこに留まり続ける必要がなかった。刺激はあくまで創作のためのステップであって、刺激のための人生ではない。
共感性の無さが光属性として機能している人、身の回りのあらゆることを好き嫌いのような感覚ではなく、すべて「リソース」という概念で運用していて、とても生きやすそうだなと思う。リソースを割きたいか、割いても無駄でしかないかというシンプルな基準だけで物事を見ていて、嫌いな相手に執着して攻撃することもなければ、際限なく他人の問題を背負い込むこともない。興味のないものには余計な感情も労力も使わず、大切にしたいものには惜しみなくリソースを割く。共感性の乏しさが冷酷さではなく、他人への恨みや執着を持たないという形で機能しているのが面白い。
リソースという概念で物事を判断できる人は、相手が間違っているかどうかと、その間違いを正すために自分の時間を使う価値があるかどうかを、完全に切り離して考えられる。どれほど理不尽でも、そこに自分が介入する利益がなければ、正しさを証明する必要すら感じない。相手を嫌い続けることにも、反省させることにも、自分の人生を面白くする効果がなければ関心を向けようとしない。
体力おばけでもないのに何とか上手くやれている人って中医学でいう気滞や気虚のような、自分が今どういう状態にあるのかを感覚的に見分けるのが上手い。
滞っているようなときは、その勢いを利用して初めての場所に行ったり、人と会ったり、何かに打ち込んだりするし、逆に虚しているときは親しい人とも社交を減らして、余計な刺激を入れずに回復を優先する。疲れているから休む、元気だから動くという単純な判断ではなく、今の自分に必要なのが発散なのか、補充なのかを見極めて滞っているときに何もしないと余計に煮詰まることもあるし、虚しているときに気分転換しようと予定を詰め込めばさらに消耗する。
体力そのものが人一倍あるわけではなくても、自分の状態に逆らわず、その時々で負荷のかけ方を変えられるだけでも回復の仕方は変わる。
言い方を工夫せずに言葉を反射的に投げてしまう人は、必ずしも言い方を工夫する能力がないわけではなく、自分はこれだけ嫌な思いをしたのに、それをそのまま相手にぶつけなければ自分だけが損をするという復讐心を抱えていることがある。
自分はこれだけ不快な思いをさせられたのだから、相手にも同じだけ不快な思いをしてもらわなければ釣り合わない。言い方を工夫して相手が受け取りやすい形に変換してしまうと、自分の怒りが割り引かれたように感じる。
そもそもこれは、自分の感情を正当に扱うことと、自分の感情を相手にそのままぶつけることを混同していて、自分の感情を尊重することと、相手が受け取りやすいように言葉を選ぶことは何も矛盾しないんですよね。現実的には、言い方を工夫したほうが自分の言い分を理解してもらえたり、要求を受け入れてもらえたりすることのほうがはるかに多いのに、相手に不快感を与えること自体が目的になってしまう。
ずっと他人の機嫌を損ねないことや、波風を立てないことを優先してきた「いい子」を演じてきた人も、言葉を選ぶという行為そのものが、かつて自分を抑圧していた経験と結びついていることもあり、大人になってようやく自分の怒りを表現できるようになっても、今度は言い方を工夫することまで自己犠牲だと感じやすくなり過去に表現できなかった怒りまで重なって「我慢するか、爆発させるか」の二択しか許されなかったために、その中間にある自由な自己表現を獲得できていない。
村上龍はLUNA SEAの「BLUE TRANSPARENCY 限りなく透明に近いブルー」から知って、気づけば小説やエッセイも読み漁りました。
80年代後半~90年代特有の空気感を描いた過去の遺物として見るのではなく、むしろ今の時代だからこそ、村上龍の作品が持っていたような、社会に適応できない人間の怒りや欲望、孤独や絶望を、安易に美化したり救済したりしない文学が必要なのではないかと思います。人間の苦しみには必ず意味があり、物語の最後には何らかの救済や成長がなければならないという期待そのものを拒否し、どうしようもない人間がどうしようもないまま生きている現実を、無理に肯定することも否定することもなく描き切るところに、村上龍の作品の魅力がある。心より哀悼の意を表します。
トラウマは連想によって当時の苦痛や恐怖が呼び起こされるものだから、助けてくれたかどうかに関係なく、その出来事を思い出させる土地や友人、自分の好きな音楽でさえも避ける対象になってしまうこともある。
助けてくれた命の恩人である大切な存在であることと、その人の存在がつらい記憶を呼び起こすことは普通に両立するし、感謝しているからこそ関わり続けられるわけでもない。いつか当時の記憶を思い出しても苦痛に飲み込まれないくらいに回復が進んだら、再び縁がつながることもあるかもしれないし、少なくとも今の距離が、それまでの友情や助けたことの価値を否定するものではないと思います。
>いくつものステップこそが交際の本質
まさにこれで、モテる人は当たり前のようにこの認識を持っているけど、「途中まで良い感じだったのに」ってよく嘆く人は交際にゴールのような概念があると思っているし、相手との距離が縮まるまでの過程を楽しむ体力がなく、「ここまで来たんだからもうゴールだよね?何しても良いよね?」と、それまで保っていた配慮や距離感を急に放棄してしまう。相手からすれば、関係が深まるほど大切にされると思っていたのに、親しくなった途端に雑に扱われるわけだからそりゃ怖くなる。
優しさや気遣いも、自分を本当に大切に思ってくれていたからではなく、自分が望むゴールに辿り着くための茶番でしかなかったのかと落胆している人と、「もうここまで来たんだからもう頑張らなくていいよね?」と安心している人の感覚が噛み合うわけがないし、両者ともに関係を築くことへの認識が違いすぎる。
依存症専門の精神科医のトークイベントで「ペルソナを使い分けることが人の癒しになるけど、そういう意味では専業主婦が最もそのハードルが高い。家族で全てのことを共有しなければいけない秘匿性の無さの反動が依存のリスクを高くする」という話が面白かった。
そうした閉塞感の出口がアルコールや買い物、ギャンブルなどに偏ってしまうこともあると考えると、依存の問題を考えるうえでも、その人が何に依存しているかだけでなく、普段どれだけ自由に複数の自分を生きられているかという視点は重要なんですよね。家族仲が良いことと、家族から切り離された自分の世界を持てることは矛盾しないし、むしろ家族以外の場所に居場所があることが、家庭内の関係を健全に保つことにもつながる。
周りを見ていても、好きなところに出かけたり、会いたい人に会ったり、家族には話さないことを話せる友人がいたりと、自由にいろんな世界を行き来できる専業主婦の人はとても幸せそうで、家庭の外に自分の世界があるからこそ、妻でも母親でもない自分でいられる時間があって、家庭の中で求められる役割からも自然に解放される。
ペルソナを使い分ける機会が少なかった人ほど、何かに破滅的にハマってしまうことがあるのは、それまで抑圧されていた自分を解放できる場所が、突然ひとつだけ現れてしまうからであり、普段からいろんな場所に行き、いろんな人と関わり、その都度違う自分でいられる人は、ひとつの場所や人間関係に自分のすべてを託す必要がない。
長いあいだ限られた役割の中で生きてきた人は、初めて別の自分になれる場所を見つけたときに、そこで得られる解放感があまりにも大きくなってしまうから、対象そのものへの執着だけでなく、その対象に触れているときにしか存在できない自分への強い執着も生まれやすい。
これってインドア派かアウトドア派かどうかみたいな話ではなく、役割や自我の側面をひとつに固定され続けることに人は耐えられなくなることで、もっと言えば、他人から特定の役割を求められることだけでなく、「私はこういうタイプの人間でしかない」という自分自身への思い込みも閉塞感を作ってしまう。
誰しも本来いろんな側面があって、関わる人や環境によって違う自分が現れるものなのに、自分の人格に一貫性を求めすぎると、それ以外の自分が出てくる余地まで失われてしまう。普段の自分とは違う振る舞いができたり、これまで知らなかった自分の一面に出会えたりすること自体が、人にとって大きな解放になる。自分らしく生きるというのも、ひとつの自分らしさを守り続けることではなく、その時々でいろんな自分になれる自由を持っていること。
教養小道具おじさんの口癖の特徴として「若い子は知らないだろうね」「本物を知らないとね」とか、聞いてもいないのにうんちくを語り出すような、上下や優劣を前提とした語り口調は特に要注意で、コンプレックスありきで教養を着飾っているだけで、映画や文学や音楽そのものへの愛着よりも、それを知っている自分が相手より優位に立てることに価値を置いているから、親しくなっても自分が上でいられることにしか興味がない。「すごい物知りで私の知らないことを教えてくれる」と好意的に受け取ってしまう女性ほど、こういうタイプのモラハラに引っかかりやすい。
飢餓感レベルで承認に飢えている人って基本のベースに自分の感覚を無視して何でも無理をする癖があるから、他人とどれだけ深い関係になったところで、その無理しすぎる癖を直していかない限りはどうやっても満たされない。自分の嫌だとか疲れたとか、本当はこうしたいという感覚を無視し続けていると、その犠牲に見合うだけの愛情や評価を誰かから受け取らないと割に合わなくなってしまう。
しかも、無理をしている自覚がない人ほど、自分がこれだけ頑張っているのだから相手も同じだけ返してくれるはずだという期待を無意識に抱きやすいが、どれだけ大切にされても、日常的に自分の感覚を無視し続けている限り欠乏感は蓄積していくので、承認を受け取っても一時的にしか満たされない。人は無理した分だけ承認に飢えるようになるし、自分を犠牲にして得た承認ほど、その犠牲を埋め合わせるためにさらに多くの承認が必要になる。
人は「その人のフラストレーションの矛先」に敏感なので、この人は自分の満たされなさを他人に向ける怨念体質だと察知されて警戒されてしまうと仲良くなるのは難しい。しかもこれは自分磨きとは全く別の領域の問題なので、いくら外見や能力を磨いても解消されない。
警戒されている領域が違うのに別の領域で努力する→それでも警戒される→理解されないことへのフラストレーションがさらに溜まる→その怒りの矛先がまた他人に向く→怒りと不満に満ちた闘争心だらけの雰囲気をさらに警戒されるという悪循環に陥る。
好かれやすい人は満たされないことがあっても他人にそのケア役の解消を求めないから相手も安心して関われるし、関係が深まることで自然と肯定的な経験もどんどん増えていく。
「女性は弱者男性を嫌う」という話題では、すぐ「女性は男をスペックで見ている」という話になる。
低スペックだから、恋愛対象として選ばれにくい。なるほど、そういうことはあるかもしれない。
でも、「この人には深入りしないほうがいい」「下手に優しくすると面倒なことになりそう」「なんとなく怖い」という警戒心までは、スペックでは説明できない。
「選ばれない」と「警戒される」は別の現象なのである。そこを、よく見ないといけない。
女性が怖がっているのは、男が弱いことそのものではない。
弱った男が、その弱さを自分にどう向けてくるか、なのである。
仕事で報われない。社会で認められない。恋愛経験も少ない。孤独で、自信もない。そこまでは別に加害性ではない。
怖いのは、そのフラストレーションが「だから俺を理解してくれ」「俺を安心させてくれ」「俺を傷つけるな」「俺を好きになってくれ」に変わることだ。
弱さそのものに加害性はない。弱さを他人への請求権に変えたとき、加害性が生まれる。
女性が見ているのは、男が弱いかどうかではない。満たされなかったときに、こちらをどう扱う男なのかだ。












